見出し画像

ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟Ⅰ」(1880)/「今」の行き着く先にもっといい世界があればいい

今日は保育園が縁で知り合ったおうちの子を我が家にお呼びし、その後公園へ。相手の子もうちの子も本当に楽しそうで、こうやって家を行き来する友達ができてよかったなあと思った。

ランチ後に向かった先はつい先日も行った旧前田公爵邸がある駒場公園。ここは加賀百万石の大名で後に華族になった前田家の元敷地。東洋一と言われた旧邸宅は一般開放されていて、中の見学が無料でできる。

画像1

子どもからすると何とも走り回りがいのあるお屋敷。絢爛豪華な内装は親もみて楽しい。ただこんな豪邸が建てられている横での当時の庶民たちの質素な暮らしときたら!19世紀から20世紀初頭あたりの世帯間の格差は凄まじい。

「格差がある社会」をここ最近で一番肌で感じたのは3年前にベトナムのホーチミンを旅した時だった。日本円にして400円のコーヒーを出す店と80円の定食を出す店が、場所によっては通りを挟んで隣接する。それは学生時代に経験した東南で感じる「物価安い」とヨーロッパに行った時の「物価高い」が街中でモザイクのように混在しているようで、富める人とそうじゃない人が同じ場所で、だけど違う世界を生きていることを奇妙に感じた。

今日読んでいた「カラマーゾフの兄弟」は富む側の男と息子たち、そしてその使用人の物語だ。景気いいお金の話と、その男に仕える使用人の歴然たる格差。物語のキーとなる「スメルジャコフ」という一家の使用人の「if もしも~」を考えると、その差はかぎりなく大きい。このことはつい先日も考えた。

ただここ最近SNSで飛び交う話をみているうちに、確かにいまこの瞬間にもたくさんの格差はあって、しかもそれが日本をはじめとした先進国の場合は、その差は後ちょっとで超えられそうなのに超えられない、そんなもどかしさがあるように感じた。その格差に対する思いは前田侯爵邸が建った頃の日本というよりは、「カラマーゾフの兄弟」でスメルジャコフが感じたもどかしさの方が、より近いのかもしれない。

階層なんて乗り越えるものじゃなかった19世紀から20世紀初頭の方がストレスフリーだったんだろうか。いや、そんな世の中はやっぱり嫌だなあと思う。

「今」の行き着く先にもっといい世の中があればいい、とやはり最初の結論に戻るのだ。それは私が19世紀の封建社会より、今のこの資本主義社会の方がうまくいく側だからそう思うのだ、と言われると、返す言葉がないのだけれど。

この記事が参加している募集

海外文学のススメ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?