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ボリス•ヴィアン「うたかたの日々」(1947)/不幸にならずにすむ、たったひとつの方法の話

2021年に読んで良かった本ベスト10を考えている時、本当に?と自問自答したのがこの本だった。というのもバッドエンドな上に設定が突拍子もなく、人に薦めるのが憚られる。
最愛な人の肺に睡蓮が咲いて死んでしまう話、というあらすじを聞いて、面食らわない人の方が少ないだろう。

作者のボリス•ヴィアンは1920年生まれのフランス人。当時はちょっとした有名人で、サルトルやボーボワール、デューク・エリントンやマイルス•デイヴィスなんかの著名人と交流がある。

ただそんな彼の書いた「うたかたの日々」は当時全く売れず、ヴィアンはしばらく後に作家としての筆を折ってしまった。

それが彼の死後、この「うたかたの日々」は突然脚光を浴び、多くの人に読まれる小説になった。日本でも岡崎京子が漫画にしたり、ともさかりえと永瀬正敏主演の映画になったり、もちろん日本以外でも多く読み継がれ、何度も映画化されている。

いちばんの魅力は現実と虚構の入り混じった世界観だ。「うたかたの日々」の世界では、ハツカネズミがお喋りをし、曲に応じてカクテルを作ってくれるピアノがある。蛇口からうなぎが出てきてそれが美味しいパイになり、デートが盛り上がってきたら雲が迎えに来て空中を散歩する。

二人はすぐそこの歩道に沿って歩いていった。バラ色の小さな雲が降りてきて彼らに近づいた。「行こうか?」と雲が声をかけた。「頼むよ!」とコランがいうと、雲が二人を包んだ。その中は暖かくて、シナモンシュガーの匂いがした。「ぼくらのことはもう外からは見えませんよ!……」コランが説明した。「でもぼくらには外が見えるんです!……」「ちょっと透けて見えるところがあるわよ」とクロエ。「気をつけなくちゃ」「大丈夫ですよ、それにいい匂いがするでしょう」とコラン。

ヴィアン「うたかたの日々」

この作品から影響を受けたと思われるミュージシャンは数多く、「うたかたの日々」「日々の泡(うたかたの日々の別名)」という曲も多くあるし、ユリイカにはミュージシャンがヴィアンについて寄稿した号もある。

最近だと米津玄師が「サイレン」という作品で「肺に睡蓮~」と「うたかたの日々を彷彿とさせるような曲を書いている。

肺に睡蓮 遠くのサイレン 響き合う境界線 愛し合う様に喧嘩しようぜ 遺る頬無さ引っさげて

米津玄師「感電」

物語は、というと、クロエは肺に睡蓮が咲く奇病にかかり、やがて死んでしまう。裕福だったコランは、彼女の治療に莫大なお金をかけたせいもあって無一文になる。クロエとコランの良き友人だったカップルも、悲しい最期を遂げる。

そんな暗い話になぜ惹かれるのか、を、再読しながらずっと考えていた。そしてちょっと分った気がしたのが、クロエの死後、コランが毎日池を覗き込むような日々を過ごして、そんな彼をみてハツカネズミと猫が会話するこの一節だった。

「あの人、岸辺にいるのよ」ハツカネズミはいった。「じっと待っているの。そして時間になると、板を渡っていって、真ん中で立ち止まる。水の中をのぞきこむの。何か見えるんだわ「そうよ」ハツカネズミはいった。「あの人は睡蓮が水面まできて自分を殺してくれるのを待っているの」「そりゃバカげてる」猫はいった。「何のためにもならない」「その時間が過ぎると」ハツカネズミは続けた。「岸辺に戻ってきて写真を見てるわ」「食事は全然しないのかい?」「しないのよ。それでとても弱ってきているの。あたしにはそんなの、耐えられない。あの人、長い板を渡るときにいつかは足を踏みはずすわ」「それがあんたにとって何だっていうのさ?」猫が尋ねた。「つまり、その人は不幸なんだろう?……「不幸なんじゃないわ」ハツカネズミは答えた。「心が痛いのよ。それがあたしには耐えられないの。それにいつか水に落ちちゃうわ、あんまりかがみこんでいるから」

ヴィアン「うたかたの日々」

「不幸」なんじゃなくて「心が痛い」。辞書をひくと「不幸」とは「精神的または物質的に恵まれず、不本意でつらい状態にあること。」とある。

そう、この話は決して「不幸」ではないように思う。コランのお金が尽きてしまい、クロエは看病の甲斐なく死んでしまうのだけれど、コランは不本意でつらい状態にある、というよりは「心が痛い」。クロエとコランが結婚した後、残念ながら何ひとついいことは起こらないのだけど、ふたりはそんな運命に呆然としながらも最善を尽くす。自暴自棄にならず、粛々とできることをやり、そんな過酷な出来事との向き合い方に私は好感を持っていて、自分もそうでありたいなと思うのだ。

運命を呪うのではなく、嘆くのではなく、受け止める。そういう態度で人生と向き合う限り、決して「不幸」にはなることはない。それはなんだかとても大事なことのように思っている。



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