【質的研究勉強会】『ライブ講義M-GTA』がわかりやすい。
質的研究を学び始めた私であるが、質的研究って何?にわかりやすく答えを提示してくれたのは、やはりこの本。
木下康仁(2007)『ライブ講義M-GTA実践的質的研究法 修正版グラウンデッド・セオリー・アプローチのすべて』.弘文堂
質的研究勉強会で、みんなで読み進めた本である。
私は質的外国語教育を研究したいのだが、先生によると外国語教育の分野での質的研究は特に日本では遅れをとっているのではないか、と。この本は実践が心理学など他の分野で用いられているけれど、質的研究とは何かを知るのによい、とのことだったが本当にわかりやすかった。
いや、わかりやすかったのは、先生が解説を交えながら読み解いてくださったからかもしれない。それまで学んでいた量的研究のアプローチとは大きな違いを感じた。わたしがどんな違いを感じたかを言語化してみる。
実践をよくしたい
わたしは英語教育を専攻しているのだが、学習者の英語のスキルが上がることよりも、その英語の授業で学習者自身がどう変容するか、ということに関心が強い。
なので、実践のなかの学習者の発言や記述、様子にフォーカスし、それを分析することでそこで起きている学びを理論立てる、という質的研究の手法には驚かされた。こんな手法があるのか、と。
これは帯の一文なのだが、まさにこれである。
この本を読んでいたとき、わたしは自分の実践の分析につまづいていた。なのでこの本に書かれた分析例の手順と技法、考え方を読みながら、つねに自分の実践の分析に照らし合わせていた。
M2の後半、学術論文の提出に向けて必死な時期にこの本に出会った。つまり必要感がもう半端ない状態。よりいっそうこの手法に感激してしまったのかもしれない。
誰が、どの立場で説明するか
印象深い一説を紹介する。
これはまさに実践と同じ構図かと思うのだが、例えば問題演習をする場合。正解は決まっているので、学習者が自身で問題集を用いて解けば正解を得ることもができる。でも…
その問題について、講義する人がいる状態で学習するとき、その講義する人によってその学習者の学びって変わるよね?ひとりで問題を解くときと、A先生が解説するときとB先生が解説するときと、全く同じ学びにならないよね?
わたしはこういうことが気になっている。つまり、「人」が介入することで異なる学び、が気になるのだ。
なぜなら、わたしが目指すものは学習者にとって豊かな学びを提供できる実践なのだ。よりよい実践を行いたいが故に、研究をしているというか。そして実践はおなじことを提供しようとしても、行う人が異なれば同じものにはなり得ない。
同じ教科書を使っても、教える先生が異なればおなじ授業にはなり得ない。でも。だから、面白いのではないか。当たり前だと思う。ひとりひとり人間は異なるものなのだから。
質的研究は解釈学
質的研究は、分析する人すらも分析のツールと考えているように受け取れる。なので、「誰が、どの立場で説明するか」が大事になる、ということ。
つまり同じ実践を、違う立場の違う人が分析したら、違う解釈になる。いや、量的研究の統計でも、統計の解釈そのものは解釈するひとによって異なる。しかし質的の場合はその統計が行う部分までも「ひとの解釈」が介入するということだ。
先生は「質的研究は解釈学」とおっしゃった。まさに、と思った。
わたしはひとつの実践を、「誰か」(可能な限り、その立場や実践との関係を説明された状態で)がどう解釈しているのか、ということを論文として読みたいし、論文として表現したいのかもしれない。
もちろん、複数の視点で分析したほうがより一般化されるので、論文においてはその配慮ができるならしていくべき。(と書かれていたと思う)
わたしの中でのひとつの定義がある。実践的質的研究とはつまり、ある実践に対してのあるひとの「ものの見方」を明らかにすることではないか、ということだ。
だれが分析しても同じになる統計との違いは、ひとつはここなのではないかと感じている、質的研究初心者のつぶやきである。
(これはわたしの解釈であり、質的研究についての個人的な見解です。)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?