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軸足を置く

私は今、絵本の原作と翻訳の比較を扱う英語教育のデザインを研究している。

軸足は「英語教育」において、「文学」との分野横断をしている、ということ。これを学際的な研究、ともいうらしい。

IB教育では強く推奨されていて、何なら英語教育サブプログラムでも「推奨している」ことにはなっている。

しかし、実際に研究を進めるのはけっこう大変。なぜなら、教授に指導を仰ごうにも、全体像を見据えてのアドバイスがなかなか得にくいからだ。このような分野横断の研究は中途半端になりがち、と避けられる傾向もあるらしい。

「異なるものが交わるところにしか学びはない」という上野千鶴子さんの言葉は、ここでも私に刺さる。あきらめたくないが、なかなかに前途多難…

ただ、どうやら私は「教育」と「文学」から人生を切り離せないらしい。

大学の学部に在籍していたころ、私は文学部英文学科所属だった。ゼミではサリンジャーの「The catcher in the Rye」を読んでいた。英文学科は卒論を書かなくても卒業できるカリキュラムだったが、私は卒論を書くことを選んだ。しかも、テーマを「第二言語習得」にして。

3年生で履修していた教職課程の授業で、強く関心を惹かれたテーマがあった。それは「英語を外国語として学ぶときに起こる母国語の干渉」だった。それは、音韻論を専門とする先生の授業で。文学のゼミに所属しているが卒論は教育学で書きたいから個別指導してほしい、という私のむちゃくちゃな提案を、その先生は快く受けてくださった。

こうして4年生の私は、ゼミではサリンジャーを読み、ひとり音韻論の先生の研究室に通いながら、教育実習先でデータを取り、分析などして卒論を書いていった。

友人たちからは「書かなくていいのになんで卒論書くの」と珍しがられた。実際に英文学科で卒論を書いた友人はいない。だが、きっとこの頃から、私はアカデミックな世界への憧れを抱いていたのだと思う。

このときの私は、「文学」に軸足をおいて「教育」の研究をしていた。もう30年近く前の話。今とは、真逆というわけだ。

いま、こうやって「教育」に軸足をおいて「文学」を研究している。軸足がどちらであれ、私にとって「文学」と「教育」はおそらくとても大切なものなんだろう。研究とは、知らず知らず自分の生きてきた道筋のなかに根ざしているものなのかもしれない。

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