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ブルーブラックの万年筆で。

わたしの仕事の心がけ。

それは、学生へのコメントは必ずブルーブラックの万年筆で行うことだ。
赤ではなく、ブルーブラックで、である。

父から贈られた万年筆

わたしは大学で教壇に立っている。
愛用している万年筆は、成人式に父から贈られたPARKER社のものだ。

贈られた当時は大学生。
万年筆はなかなか上手に使えなかった。安い水性ボールペンを愛用していた。

大学を卒業して、小学校の教員になった。
しかし使うのは、赤ペンばかり。やはり万年筆に、なかなか出番は回ってこなかった。

子どもが生まれて、主婦になった。
ますます万年筆の出番はなくなった。引き出しのなかにずっとしまわれたままだ。

8年のブランクを経て、わたしは再び教壇に戻った。児童との関わりはおそらく、母になったことで豊かになった。

あるとき、児童のノートにコメントを書いている自分の手が止まった。なぜわたしは、コメントを赤ペンで書いているのだろう、と。


赤色で文字を書くということ

赤色で名前を書くことには抵抗がある。これはおそらく、人の名前を赤い字で書くことは縁起が悪いと幼い頃に聞かされたからだと思う。

さらには赤でコメントなどを書く場合、黒い字との差別化が図れるが一方で、教員の仕事としてはテストやプリントで「訂正を促す」色としての印象が強い。

訂正あるいは、評価という意味合いを含む赤色を、自分の考えや思いを伝えるコメントに用いることは、なんだか学習者が書いた記述を上から「訂正」しているような…。

あるときから、赤字でコメントを書くことには、無理やり正解を押しつけているかのような、なんともいえない居心地の悪さを感じるようになった。

徐々にわたしは、たとえ赤で丸をつけてもコメントは赤でない色で残したい、と思うようになった。

学習者の提出してくるものはたいてい黒字で書かれているため、必然的にブルーブラックのインクを選択するようになった。

そこでにわかに注目を浴びたのが、引き出しにしまわれたままだった万年筆である。


赤ではなくブルーブラックの万年筆で。

コメントは必ずブルーブラックの万年筆で書く。

現在は小学校教員ではなく、大学で教壇に立っているが、おそらくいま、小学校に戻っても同じスタンスで行くだろう。

教員と学生は立場は違うが、教室では学びに向かういわば同志みたいなものだ、と思う。いや、教員と児童だって同じだ。

学校は、教員が教える場ではなく学習者が学ぶ場だ。その学びの助けになる程度の存在としての教員でいたい。上から正解を押しつけるのではなく、学習者がそれぞれの正解に向かうときの道しるべとして横に立っていたい。

だからわたしは今日も教員として、ブルーブラックの万年筆でコメントを書く。この色は教員として学習者を尊重する、その意識を改めて持たせてくれる。

ブルーブラックのインクを携えた万年筆は、いまやわたしの大切な相棒だ。わたしはようやく、万年筆とともに歩める「大人」になれたのかもしれないな。

手にしてから早30年。ボロボロになった万年筆の赤いフォルムはいま、わたしの手に馴染んでいる。

# 仕事のこころがけ

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