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話さないのは話にならないと思うから。

話して、というのであれば、ちゃんと聞いてほしいと思う。

理由を言って、とか、何かを説明して、とか言われて、話してみたら、それは違うとか、こっちが正しいとか、なんやかんやと否定されたりしてしまうとか。
ほんとにそれでいいの?正しいと思うの?こっちではだめなの?って強引に説得されてしまうとか。

聞くのは聞いても、そこから「話す」ことができたと思えないことがよくある。

そういう場や、そういう相手だと、そもそも話したいとか話してみようという気がなくなってしまう。
話しても結局聞いてくれるわけじゃないじゃん?って。話したら否定されたりだめって言われてがっかりするだけじゃん?って。どうせ自分の意見をとおしてくるなら、どうせこうしたいこれがいいというのがあるなら、聞かなくてそうするって決めたらいいんじゃない?って。

これと同じようなことって、あちこちであるのではないかと思う。

「部下がなかなか話してくれない」「メンバーが意見を言わない」っていう話をよく聞く。
自主性がない、自分の考えがない、受け身だ、だから困る、って言う。

でも、そういう場合に、自分自身が相手が話しづらくさせていないかを考えてみてほしいと思う。
意見を求めたのに、相手の意見を否定したり指摘したりばっかりしてないか。
意見を求めておいて、結局自分の意見をとおしてないか。

別にそれがだめってわけではなくて、よい意見でなかっなら指摘せざるを得ないし意見を採用できないこともある。
でもいつもいつもだったり、言い方がよくなかったりすると、意見を言う気がなくなってしまうことはあると思う。言ったって無駄で、考えても無駄で、言わない方が指摘も受けずがっかりしなくてすんでデメリット少ない、みたいな。

話を聞いたとき、意見を聞いたとき、それに同意できなくても採用できなくても、「いったん聞いたことを受け入れる」というのが必要だと思う。

そう考えたんだね、そういう意見もあるんだね、って。
違う意見で受け入れられないとしても、あなたの意見はわかった、って受け取ることはできるし。
考えが足りないなって思っても、そこまで考えたというのを受け取ったらよくて、続きを考えさせるなりなんなりはそれからでもいい。

そこまで気を遣って話してもらえるようにしないとだめなのか?って思う人もいると思うんだけど。
特に、相手が自分との関係で話しづらいわけではなくてもともと話してくれない人とかだと、なんで自分ががんばるの?って思うかもしれないけど。

でも、話してもらいたい、意見を言ってほしい、って思うなら、そういう希望を持ってる側ががんばるしかないとも思う。
話したくない人と、話してほしい人がいたら、話してほしいならその人ががんばらないと状況は動かないから。

頭ごなしに否定したりしないで「いったん受け取る」というだけなら、大変でもなくたいして変えずにかんたんにできることじゃない?
それを続けるだけでも、なんかこの人には話せるかもって変わってくると思う。

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