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心理的安全性「風」をつくっていないか?

組織内で「心理的安全性を」って話を聞くときに、もやっとすることが多い。

「心理的安全性をめざしてみた安全風」な雰囲気になっているだけ、それを目指しているだけで、心理的安全ではないなと思って。
やわらかい空気とかちゃんと聞こうとする感くらいの、ふんわりしたイメージになっている気がして。

というのが、めっちゃわかりやすくてまとめられていて、ほんとこれ!って思った。

「心理的安全性」という言葉の認知はそこそこあり、心理的安全性が必要という認識も広まっていて、でも、心理的安全性ってどんなものでなんのために必要なのかってあまり知られてない気がする。
だから、よくわからない感じの「心理的安全風」にしかならないし、組織全体としての課題になってないのではないかなと。

「生温かい職場ではなく」という点が1番誤解が大きそうに思う。
厳しくなく、責めたりせず、やわらかい話しやすい雰囲気で、みたいな感じで、「安全性がある」とされていないか。

それらは確かにまず最初の入り口としては必要なことだと思うけど。
それって、マイナスに向かない最低限だと思う。

発言しやすい、行動しやすい、チャレンジしやすい、などの風土が自律性を促進して自走しやすい組織になるとか、自ら学んだり試したりして個々も組織も成長するとか、そういうところが目指したいところだろうし。
いいアイディアを出したり改善したりするために、なぁなぁでなく本気でぶつかれるっていう安心安全が必要だ。

そういう風になろうとしているように見えないことが多いし、そもそもそういう意図をわかっているのかもわからない。

あと、よく思うのが「心理的安全性のある場だ」と宣言したところで、それは心理的安全ではないということだ。

穏やかに話して安全そうな雰囲気をつくろうとしているのかなと見えるマネージャーがいたりするけど。
「なんでも言っていいので発言してください」って言ってたりするけど。
「心理的安全性が必要なのわかってるよ、安全にしているでしょう?だから話せるでしょう?」って雰囲気があったり、「なんで発言しないかなぁ」って発言しない側に問題あるような言い方を聞いたりするともやっとする。
自分が話せそうな雰囲気だからといって、相手もそうだとは限らない。

そもそも、心理的安全性って、関係性なので、そのときだけの感じで決まらない。
いくらその瞬間にどれだけちゃんと聞こうとしていても、なんでも大丈夫とほんとに思っていても、それまでの関係性でそう信じられていないなら、安心安全とはならないよね。

講座やワークショップなどのその場で一気に場づくりをするのに比べて、組織内だとじっくり関係性を育てていけるよさがあるけど。
逆に長年培われてきている関係性や風土をいったん壊して立て直したりする場合、時間もかかるし難しくなると思う。

だから、そういうところも踏まえて場をつくっていく必要があるのに、とりあえずわかりやすい「心理的安全風」にして、うまくいかないなぁってなっている気がする。



でも、「心理的安全性をめざしてみた安全風」をにしかしない側もどうかと思うけど、組織やマネージャーが「安心して話せる空気」「思い切って話すメリット」などを用意してくれるのを待っている部下もどうかと思うわけ。
(待ってもいないでどうでもいい人もいるだろうし、特に問題意識ない人もいるだろうけど。)

関係性をどうつくるか、って誰かひとりががんばって変えるものでなく、お互いに関わって変化していくものだし。
組織がどうなのか、っていうのは、その組織内の人それぞれも組織の一部で、自分がどうあるかが組織の風土になっていくものだし。

よい風土をつくってもらおうとしていたら、よい風土は生まれない。

いろいろ書いたけど、「心理的安全性をつくろう」としている時点で、心理的安全ではないのだと思う。

目指そうとしている時点でそうなっていない、ということもあるけど。
「心理的安全性」という、あいまいでよくわからないものを目指そうというのが違う気がする。

そこにいる人を見て、人と人の関係性を見て、そこにあるプロセスを見ようとして、はたらきかけたりかけられたりして変化していった結果、「心理的安全」がつくられている状態になるかどうかの話だよね。

「心理的安全」をつくろうとするのでなく、目の前の人、チーム、組織でどんな感じにいたいのかってことだと思う。

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