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それぞれの普通は矯正しない。

いつも、「育てる」「伸ばす」「気づかせる」などという言葉を聞くと、もやっとしてしまう。

それは、私にとっては、「普通は」って言われるのがいやなのと同じことだなぁと思う。

自分が中心で、自分が考えることが正しくて、自分がいいものは誰にでもいいもので、自分が合うものはみんなに合うはず、とでも思っているのではないかと思ってしまう。

正しくて、あたりまえのことを言ったりしたりしていて、だからそれに従うべきだ、というように思っていたり。
自分が正しいと思うことは、世の中の正しいことだと信じていたり。
自分のあたりまえは、誰にでもあたりまえだと疑っていなかったり。
正しいことやあたりまえのことを、知っていて導いてやるんだって思っているのだろう、というイメージ。

それは、両親や学校の先生のイメージから来るものだ。
なんで、自分の、自分たちの「普通」や「あたりまえ」を、誰でもの普通やあたりまえだという前提でいるのだろう?と思っていた。

なんで、田舎で育って田舎で仕事して、公務員しかやってないお父さんが、日本とか世界の社会の普通みたいな言い方で、一般論みたいに語るんだろう?って思ってたし。
なんで、田舎の専業主婦で、私で子育てはじめてなのに、子供の普通を語れるのだろう?って思ってたし。
田舎の中でもちょっと変わった学校の先生が、学校の普通を語るんだろう?って思ってたし。

時代が違うのに、状況が違うのに、そもそも同じ人でないならいろんな条件が違うのに、ひとくくりに「普通は」とか言われるのは納得できなかった。
教科書とかテストの答えが、一般論みたいに言われるのもよくわからなかった。特に国語とか社会とか解釈次第で変わりそうなのになぜ正解がひとつなのか。

一部の世界しか見てなさそうな、いろんなことを知って考え抜いたわけでもなさそうな、私から見て偏ってるように見えるような人たちが思う、私には普通でもあたりまえでもないことを「普通」で「あたりまえ」という人たちが思う、「正しい」道や考え方にひっぱられたり押し付けられたりしてる感じがすごくいやだった。

それを今でもひきずっていると言えばそうなのだろうし、そんなところから私の考え方がつくられたのかもしれないけど、いつでも、今でも、誰かの「普通」や「あたりまえ」を押し付けられるのがめちゃくちゃ苦手。
押し付けるつもりもなく、普通だからあたりまえだから疑いもなくその前提で話が進められるような押し付け方の人ってすごく多いと思う。

それぞれの人の「普通」を見つけたり知ったり尊重することにこだわろうとするのも、そこからなのだろうと思う。

友達に、「押し付けられるのがいやなのはわかるけど、どうしてもらいたいの?」というようなことを聞かれたことがある。
答えは一択で「ほっといてほしい」だ。

そのことについて何かしてくれなくて全然いい。私の考え方にそまったり寄り添ったりとかまったくなくていい。
私の考え方を矯正しようとしないでほしい。
共感したりおもしろがったりしてくれるならそれはそれでいいし嬉しいけど、反対でも違う意見でもいいからそのときに私の考え方を変えようとしなければそれでいい。

というところにすごくこだわってしまうのは、結局とらわれているってことなのかなぁと思いつつも、それは私の考え方のベースだしとらわれてようがそれはそれでいいような気もする。

ほかの考え方や意見については、話を聞いたらなるほどと考えが変わったりすることもありうるのだけど(それが普通だとかあたりまえだとかの態度でこられなければ)。
この、それぞれの普通があるしそれぞれがその人の普通と尊重するものだ、ということについてだけは、何言われても変わる気がしない。

私は誰かの普通を変えようとはしないつもりなので、同じく変えようとせずにそのままにしてくれる人とだけ話したり仕事したりにしたいなと思う。

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