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「普通はこうでしょう」って言われたら。

「あなたの普通はそうなんですね」って思う。

「普通」って何?って思ってしまう。

「普通は」って言われるのがほんと昔からいやでしょうがなくて、今でもめちゃくちゃ反抗してしまう。
それはあなたの普通かもしれないが私の普通ではないしみんなの普通ではない!って思って。
同じ「普通」になるのなら、たまたまその人とほかの人の普通がかぶっている部分があったか、合わせているだけじゃない?って思う。

なので、「普通はこうするでしょう?」などと言われると、その人はそうなんだろうなと思うけど、普通って言われるとわからない、としか言えない。
私が同じことをするのであっても、私はみんなの普通ではないから、「普通はこうする」とは言えない。

という感じで、かたくなに「普通は」を認めなかったとき、
「なんなの?そんなに普通はいやなの?」
「自分が普通でないとでも言いたいの?」
と揶揄されたことがある。

全然そんな話してないし、話ちゃんと聞いてたらそういう意味でないことわかるじゃん?と思ったし、だから話聞いてないから聞く気がないんだなとそのときは思ったのだけど。
「普通か特別か」みたいな世界観が、その人の普通で、違う意見や違う世界観からの言葉はその「普通」に合うように変換されてしまったのかもしれないとも思う。
私からは悪意に感じたけども、悪意はなくその人の「普通」を聞いて「普通」を言っただけなのかもしれない。

そこまで極端でなくても、自分があたりまえだと思ってることにも気づかないくらいあたりまえだと、思いがけない反応きたら、え?なんで?とか思うもんな。
そう思ってしまうのはしかたない気もするから、反応のしかたには気をつけたいところ。

私が昔から「普通はこうでしょう」っていうのがいやだったのは、私は自分でこうするのがあたりまえと思って、というか、あたりまえだとも思いもせずそれが普通のことと思ってやっていたことが、「普通はこうだ」「普通はそうしない」と言われてきたからだ。
子供のときの、親とか先生とかまわりの人たちからの「普通はこうでしょう」は合わせざるを得ないことが多くて、それがいやだったのだと思う。

だから別に「普通は」って言われても「こうでしょう」「こうしなさい」って言われないなら、平気だと思う。
と言っても多分、単に自分との違いを伝えるための「普通は」のときには「私はこうだ」っていう人が多い気はするけど。

ほんと別に「私の普通」を認めてくれなくても合わせてくれなくてもいいから、ほっといてじゃましないでくれたらいいだけなのになと思う。
私も人の普通をじゃまする気はないし。

お互いの「普通」をおもしろがれる人たちと補完しあえるのが理想ではあるのだけど。
でもみんながお互いじゃましないだけで、息苦しさとか全然変わると思うし、生まれるものも変わると思う。

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