聴いてもらったことがないのに聴くことができるか?
知識としてなんとなくわかっているつもりでも、なんなら知識としてはよく知っているつもりでも、体感していないからほんとはわかっていないってことはあると思う。
で、よくそのように感じるのは、「聴く」ということについて。
「傾聴」という言葉が結構一般的になっているのもあって、「傾聴のテクニック」みたいなものもわかりやすく広がり、余計に「傾聴すればいいんだよね?」っていう、別に傾聴はしていないけど傾聴テクニックを使っている風の聞き方、みたいなのが多いと思う。
相槌を打つ、「わかる」などと共感を示す、伝え返す、寄り添う、みたいな。(特に前者2つが多い。多分わかりやすくやりやすいからだと思う。)自然に出てきてるのとテクニック的に出しているのはタイミングや雰囲気が違う。
それは聴かれている側からしたら、「聴いてもらってる」のでなく「聴いている形をつくられている」感じがあるし、むしろ普通に聞かれているより聴かれてる気がしない。
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そもそも、聴くことって(聴くことに関わらず、人に対するいろんなことって)、人との関わりで人と向き合うことで、テクニックなんかじゃないはずだ。
テクニック的なものだって、もともとは、実際にしっかり向き合って関われている人の態度を示すとどんなものなのか、というのをまとめただけだと思うし、なので形には関係なく、どういう意識でどういう態度でいるかだと思う。
共感を示されなくても、丁寧に寄り添うとかがなくても、聴いてもらえていると感じるときはある。
というか、普段仲いい人と話すようなときってたいてい傾聴的でもなんでもないし、それでも聴いてもらってる感じがするじゃん?
相手の話を聞きたくて聴いているから、聴いてもらえてると感じられるのだと思う。
そういうものじゃない?
で、仲よくてよく話す相手でも、お互い自分が話したいことに気を取られているようなときなど、ほかに意識があるときには、聴いてもらえている感じはしない。
相手に関心を持って聴いているのか、イマココに意識があるか、それだけのことで、聴き方や聴く形なんか関係ないと思う。
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私が、これが聴いてもらえているってことなんだなぁ、としみじみ思ったのは、もう5,6年前になるのだけど、SIYを受けたとき。
聴き合うワークの途中か後かで、MiLiの木蔵シャフェ君子さんに聴いてもらうことがあって、ほんの数回くらいのやりとりだったのに、その中で感じた。
聴くって、聴き方とかでなくて、そこにいるそのときのその人の感じなのだと思った。
あり方というか、向き合い方というか。
何年かたっても、その感覚は覚えていて、目指したいところだなぁと思っている。
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