知っていることと体感していること。
心理的安全性、という言葉は、よく知られるようになったと思うし、あちこちで使われているけども、心理的安全「風」な気がしてもやっとしてしまう。
心理的安全な場だから、何を言ってもいいから、さぁどうぞ!という感じで、関係性や雰囲気などないままに宣言されても、そこには安全性などつくられていないし。
「安全」というのを、無難に、穏便に、衝突せず、という感じにとらえているのか、ふんわり表面的なやりとりだけに終わるような場も多い。
心理的安全があるから、というのは、何を言っても大丈夫で、どんなことでも受け止めてもらえて、っていうはずなのに。
だから本気で向き合ってぶつかりあえたりするよね、ってことなのに。
無難な「安全風」の場合は、全然向き合えてなくて、言葉が頭の上を行き交う感じになる。
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そんな、「風」だけで、危険はなさそうなだけのものが、「心理的安全」というものだと思われるのはもったいないしいやだなぁと思うのだけど。
こういうものは、知識でだけ知っていて、なんとなくこんなものだとイメージしても、わかりようがないのだろうなとも思う。
適当にそんなものだとしているわけでなく、どんなものかわからないからそんな風にしかできないのかもしれない。
知識として知っていてわかっているつもりなのと、体感してわかっているのは全然違うし。
それぞれ体感しかたは違ったりするから、言葉などで説明されたものはその人以外にはわかりにくいし。
実際に体感しないと、それと同じようなことはできない。
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私は、つきあいの長さとか関係なく、ほんとに「何を言っても大丈夫」「なんでも受け止めてもらえる」と思える、という感覚を知っているし。
そういう場をつくれる人たちを知っているし、そんな空気の場にいつでもいける。
絶対的に安心できる人を知っているし、いつでも安定して安心できる感覚を知っている。
以前受けた小笠原和葉さんのPBMという講座で、安心というもののしくみを知っているし、安心をつくり出せることも知っている。
だから余計に、心理的安全「風」は、私の知っている安心感とは全然違って、もやっとしてしまうのだけど。
ほんとは、知ってるなら自分がそれをつくって伝えられたらいいのだとも思う。
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知識として言葉として理論などで知っているということと、体感としてわかることは違うものだ、というのは、もっと知られるといいなぁと思う。
わかってないかもしれない、って思わないと、わかるようにならないとも思うし。
知識を得ることも楽しいのだけど、実際、何かを体感してみるっていうのはよい体験だというのが、わかるって知っているってこういうことかというのが、伝わるといいな。
心理的安全性の話だけでなく、体感でわかる楽しさっていうものが伝わって楽しいといいなと思う。
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