「どんな方へ」を決めて発信できないなら、「どんな自分か」は明確に
発信をする中で必ず必要と言われる一つとして
誰に向けて発信しているのか
がある。いわゆるターゲット、ペルソナ、具体的な人をイメージして発信する方が良いと言われること。相手軸に立つ話と共に。
誰に向けて発信するかが、とにかく苦手で全くできない。意識して3年経つが、上達の光は見えてない。講座や色んなコミュニティでもよく言われるし、大切なのにできない。暫定的に決めて発信してみたこともあるがイマイチだった。
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それが、週末に京都市内をウロウロしていたらふと気づいたのだ。
そもそも誰に発信するか以前に、誰として発信しているかがブレていると。
京都市内は観光客で溢れていて、市民としては大変暮らしづらい。
週末プラプラする時は必ず「京都市民として」モノ申している自分がいる。
母の身としてや、公共のサービスを受けている身などの『わたし』は全くでてこないのに。
たくさん存在する『わたし』を意図的に使い分けられていない。
例えばnoteで記事を書く時にも、表現しやすい『わたし』だけを使っている。
母として育児のこと
妻として夫婦関係
占い師として、サービスを受けてくれる方向けになど。
表現しづらい、日本人としてとか、女としては避ける傾向にある。
他にも、何かしら関係性のある属性(妻→夫、母→子、提供者→消費者)で書くことはできても、『自己・自我のわたし』とかは書けない。
哲学っぽいことを考えることは好きだけど、言語化する力量不足。
占い師として書くとしても、夫の扶養内で働いている兼業主婦としてなのか、自営業で奮闘する身としてなのか、何らかのサービス提供者としてなのか、細かく考えられてないなと。
人でごった返す京都の観光地を歩きながら、腑に落ちたこと。
誰向けに発信するかも考える必要があるけれど、それができないのならば、せめて『どの私として』発信するかは、意図的でいようと。
↓スタエフでも話しています。
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