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映画評#1「三島由紀夫VS東大全共闘 50年目の真実」

 私は三島文学の愛好者であるとともに、じつをいうとこの時代の学生運動や政治論争に異常な興味を持っている。そして自分でもどうかと思うほど、共産主義とかあさま山荘とか、日米安保の歴史とかにくわしい。私のちょっと人には話しにくい、というか話す相手を選ぶ趣味のひとつがこの三島由紀夫という男だ。

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画像出典:映画「三島由紀夫VS東大全共闘」公式サイト、以下同じ


 昨年3月に公開されたこの「三島…」が、最近Amazonプライムビデオになったので、私はこの週末、新しいレビューがアップされるたびに読むのを楽しんだ。どうにも三島というのは日本史上にほの白くかがやく1つの謎だ。その謎を日本中の老若男女が突っついて掘り起こす週末の風景を、彼岸の三島はどう見つめているのだろう。

 私はこの映画を昨秋に渋谷のアップリンクというミニシアターで鑑賞した。今日はAmazonプライム登場記念に、そして感染症流行のさなかで今月閉館してしまったアップリンクに、この感想文を捧ぐ。
 

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 昭和45年11月。三島由紀夫とともに市ヶ谷に出掛けて行って、自衛隊の偉いさんを縛り上げてバルコニーの上からビラを撒き、万歳して切腹して死んでいった男がいた。森田正勝。

 その森田が生まれたのと同じ昭和20年7月25日、森田と同じ名前を持って私の祖父が生まれた。「皇国必勝」の願いを名に託されてふたりの正勝が生まれたわずか3週間後にしかし、日本は敗けたのである。

 祖父の名の由来を祖父その人から聞いたのは、私がまだ小学生の頃だった。そのときの私はすでに終戦記念日が8月15日だということを学校の授業で知っていた。だから祖父の名前にわたしはとても驚き、思わず苦笑してしまいそうになった。南洋諸島の基地の多くが陥落し、沖縄戦に大敗したその時分になってもなお、日本人はあの戦争に勝てると信じていたのだろうかと。

「おじいちゃんにその名前をつけた人は、マジでアメリカに勝てると思ってたの?」って聞いてみたかったけど、聞けなかった。幼な心に侮辱してはいけないと思ったんだと思う。彼らが必死で守ろうとしたものを。小学生の頃には気づかなかったけれど、「正勝」に日本人が込めた悲壮な願いが、今は少しだけわかる。

 ……とそんなエピソードを思い返しながら、渋谷の小さいシアターでわたしは今日、この映画を観た。


 映画はTBSが長く秘蔵していたという三島対東大全共闘の討論を記録したVTRと、当時三島が率いていた「楯の会」の同志たちや、親交のあった著名人たちの談話で構成されている。

 50年前の映像とは思えないほど画も声もくっきりとしていて、三島由紀夫、対峙する学生たちの表情も明るく、まるでそこに居るかのように鮮やかなことにまず驚く。

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 けれど観ているうちにわかってきたのは、クリアーな印象は、ビデオやレコーディングの性能によるものではない、ということだった。

 明るいのだ。壇上にすっくと立ち、よどみなく喋っている三島本人の存在感が。相容れない存在であるはずの三島が喋るのを、食い入るように見つめている1000人の学生たちの顔が。

 「三島対全共闘」といいながら、どちらにも相手を論破して組み敷いてやろうという陰険さが感じられない。「皇室奴隷のおっさんナルシスト、泣いて毛沢東に跪け」とか、「はねっ返りの売国ガキ共、お前らこそブルジョワだろ」とか、そういう、討論というより思想プロレス然とした罵り合いを想像していたが、東大の大教室には、それとは180度違う温和な空気が流れていた。過激学生の本拠地に乗り込むなんて危ないから、と護衛を申し出た警察官を全部断って、三島はひとりで会場に向かったそうだが、もし三島がこういうリスペクトを持たない人間だったら、討論の空気はまったく違ったものになっていたのだろう。

 学生たちはリーダー格を中心に、三島を挑発するような質問をしたり、彼の論理の難点を指摘したりする。彼らの言葉は、わたしから見れば極端に観念的で、正直何言ってるかほとんどわからないし、わかろうとするのもめんどくさい。だけど三島は彼らの賢しまな屁理屈を全部聞いて、補って、自分の持っていたマイクを差し出してあげたりして、とにかく全部受け入れる。受け入れて瞬時に全部打ち返す。打ち返すのはもちろんのこと、返す刀でしっかり相手のハートをつかんでいく。問答が1つ終わるたびに、繰り返されるたびに、学生たちが三島に飲まれていくのが伝わってきた。三島が語るたびに「それは論理矛盾をきたしていますね」とか、「反共思想の敗北ですよね」とか言って、わらわら距離を詰めてくる学生たちの姿は、私にはまるで、授業のあと、先生遊ぼう、って若い男性教師に群がっていく小学生みたいに見えた。

 討論のスタイルもよかった。ディベートでありがちな、机とパイプ椅子の島を敵味方にがっちり分けて座るやり方じゃなくて、右翼も左翼も肩を並べて所狭しと壇上に立ったまま喋っている。立ち位置を決めないぶらぶらスタイルは、そこはかとないノーサイド感があってフェアっぽいし、会社の喫煙所でグダグダ世間話している、サラリーマンの上司部下みたいでちょっと可愛い。

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 若者たちの言論は、闘争だとか自由だとか解放だとか、何回聞いても空虚で体験が感じられなく、言葉だけ聞いていると5分で寝たくなる。言葉が滑って入ってこない。そんなときは顔を見る。空転する言葉は無視して、顔を見ていれば、その熱だけは確かに感じられるから。捲し立てる学生の顔、俺にも一言喋らせろと乗り出す学生の顔、煙を吐き出しながらじっと耳を傾ける三島の顔。なんで三島の言葉にしか力がないのか。観ながら私は思い出していた。

  のちにあさま山荘事件を起こした連合赤軍に関する資料を私はかなりの数読んだけれど、思想の違いを抜きにしても、リーダー森恒夫の語る言葉が全く響いてこなかった。共感できなかった、というのではなく、そこから数段下がって、「意図するところを解読できない」のだ。私の勉強が足りないのか、森の説明能力が低いのか、当時はどちらとも判断がつかなかった。

 けれどこの映画を観て、あー、あれもつまり滑ってたってことなのかな、と思う。よそで聞いて覚えてきた、どっかの誰かの知識は思想は方法論は、それがどんなに有効っぽくて権威を帯びていても、空を滑って私に届かない。語る本人が両手でつかみ、血の流れる掌を呆然と見つめた体験を持たない限り。毛沢東やマルクスの著作を諳んじてなぞることしかできない限り、言葉は聞く者を振るわせ得ない。

 学生運動に熱狂したおおぜいの学生たちもまた、毛沢東やマルクス、共産主義という巨大なクラウドサーバーの中から、一人ひとり、別々のデータを取捨選択して持っていたのだろう。めいめい、多分に、自分の好きなものだけを。自分のベクトルとなるだけ重なり合うものだけを。私にも彼らにも理性がある。だけどあの理性とこの理性が合同形だなんて誰にも証明できない。クラウドから何を取り出して、どういう解釈で保存しているかなんて、私たちはほかの誰とも見せ合うことはできないし、どれが正しいのかなんて議論することもできない。

 だからライブだ。言葉は生きて言え。死んだら、死んだ人の言葉は、もう二度とライブだったときの原型をとどめない。書き残そうと、語り継がれようとも、クラウドから勝手に引っ張り出された断片が滑っていくだけだ。10年経って、100年経ってそしたら、当世の人間たちは名言だとか泣ける言葉だとか神だとか喧伝するかもしれないけど、どうしたってその言葉に身体性を重ねることはできないだろう。

 三島がいた時代にはインターネットもクラウドもないけれど、あの腹を切った日、もう三島はクラウドになることを受け入れていたんじゃないかと思う。市ヶ谷講堂のバルコニーでの最期の演説は悲惨だった。声はちゃんと聞こえないし、同じことを何回も言って冗長だし、構成もめちゃくちゃで三島らしさがすっかり消失していた。

 三島はもう、あの演説なんてどうでもよかったんじゃないかと私は思う。
だって演説した結果、もしあの檄に共鳴して自衛隊員たちが加勢してくれたら、その勢いでクーデターを起こすっていうルートを想定していたって良かったはずだ。だけど三島は端からその選択肢を棄てていた。誰も共鳴してくれるはずがないと最初から失望していたから。自衛隊は起たない、軍はもう二度と蘇らない、自分の生きたい時代は来ない。絶望をもう、とうの過去に呑み込んでいて、望みを持たぬ自分が語る言葉に価値は無いとわかっていたから。死んでいく、否すでに死んだに等しい自分が語ることなど、ヤジとヘリの爆音にかき消え、誰にも聴こえなかろうが、好き勝手に解釈されようが、永劫に空を滑りまくろうが、一向にかまわないものだったんじゃないか。

 映画を観終わって外食しながら少し仕事をし、帰宅したら夕刊に「今年の流行語大賞2020」が載っていた。私は欠かさず新聞を読んでいたはずなのに、全然知らない言葉が3つも4つもあって驚いた。けれど全然構わない。きっとどれも、2020年という今年の気分を存分に、滑りに滑りまくった言葉なのだろう。50年も誰かに記憶されることなんてないのだろうから。


映画#「三島由紀夫VS東大全共闘 50年目の真実」
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