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シェアハウスで出会ったフランス人とスピード結婚&移住するまで

はじめまして。

タイトルの通り、フランス人と国際結婚し気づいたらフランスへ移住していた私の話を自己紹介がてら書いてみる。

長くなってしまったので、興味のある部分だけでも、ぜひどうぞ。


私について

九州・福岡で生まれ育つ。おとめ座。
大体のことは適当だけど自分のこだわりは譲れないタイプ。仲良い人からは「他人にあんまり興味ないよね」と言われる(きっと良い意味)。周りにも似たような友人が多く割とさっぱりした交友関係なので、お互い様で上手くいっているんだと思う。
父のこだわりで姉兄私3人とも、海外でも呼ばれやすい名前&漢字一文字。逆に日本のほうが何故か間違われやすい。

父はフランス料理のシェフで、若い頃フランスで8年ほど修行していた。母も父を追って3年ほどフランスで暮らし、パリで姉を出産している。そのせいか、いわゆるTHE 日本人的な家庭環境ではなかったように思う。
子供の頃、私は幼いながらも家にある外国の写真やフランス語の本に囲まれて過ごし(もちろんまったく読めないけど)、なんとなく「日本以外にもいろんな世界があるらしい」と認識していた気がする。

家では和食も出ていたが、料理好きな両親はいつも色々なメニューを作ってくれたし、小学生になると父の職場までおつかいを頼まれたり、父の研究という名目で(笑)2人でレストランに出かけることも多かった。なので主に食文化をきっかけに外国を知っていったが、両親ともテレビ番組「世界の車窓から」や「世界ふしぎ発見」が大好きで、家ではよくそういうチャンネルが流れていた。

そんなわけで、中高生時代は英語が1番好きな科目だった。知らない言葉、知らない国の文化や出来事を知るのは好奇心・冒険心がくすぐられ、とても楽しかった。大学ではフランス語や欧米言語文化を履修し、20歳の時、地道に貯めたバイト代で初海外 - 1週間フランスひとり旅をした時は快感だった。かつて両親が暮らし、姉が生まれた場所に今度は私が自力で来ているなんて!脳内ではアナザースカイ風ナレーション…完全に浸っていた。そしてまさか、この経験が数年後 自分の人生を大きく変えるなんてまったく予想していなかった。

こうして見ると、当時から自分の興味はあまり変わってないと思う。


夫との出会い〜付き合うまで

月日は流れ、2020年 元旦。
数ヶ月後に新型コロナウイルスが蔓延するなんてまだ誰も知らなかった頃、私は生まれてから20数年 過ごした福岡から初めて東京に引っ越してきた。
理由は2つ。

・地元に飽きて、変わり映えのない毎日に退屈していたから
・当時付き合っていた彼(転勤者)が東京に帰ってしまったから

そもそも大学受験のときに実家を出たかったけど、関西の第一志望校に落ちて地元の国公立大(国際系学部)に進学、就職活動はコストをかけるほどやる気がなく流れに身を任せていた私に訪れた、またと無いチャンス。これを逃す手はなかった。

東京で半年ほど彼の家に住まわせてもらったものの、彼はその夏に今度は東北へ異動。1年ほどの任期だったので私は関東に残り、予算と身動きの取りやすさ、友達ができやすそうという理由でシェアハウスに住むことにした。

新しい環境や人間関係にわくわくしながら始まったシェアハウス生活。
コロナ禍での遠距離&緊急事態宣言という状況は思っていたよりも影響が大きく、時間の経過とともに私の彼への気持ちは徐々に薄れていってしまい、離れてから1年も経たずにお別れすることとなった。


そんなタイミングで出会ったのが、今の夫だった。
私より半年ほど早くシェアハウスに入居していた夫とは、生活リズムの違いで初めはなかなか交流の機会が無かったが、シェアメイト経由で製菓学生のフランス人がいるという情報は耳に入っていた。しかも日本語が話せるというのだから、もちろん興味が湧かないはずはない。

夕食の時間帯、タイミングが合えばよくリビングで話すようにしていた。家族のこと、フランスのこと、お互いの趣味や友達のこと…すっかり意気投合し、仲良くなるのにそう時間はかからなかった。後々きくと夫は私に話しかけられるのが結構嬉しかったらしい。

夫の製菓学校の卒業試験終了後にデートをする約束をしたのが始まりで、それからは文字通りいつも一緒にいるのが当たり前になった。


交際半年で受けたプロポーズ

付き合って半年の記念日、ちょっと美味しいものでも食べにいこうかと近所の焼肉屋さんに出かける。臭いもつくしラフな格好でいいか、と相変わらず適当な私と反対になぜかちょっとキレイめな服を来ている夫。
普通に気づけよ!という感じだが、まさかそんな大事な日になるとは1ミリも知らない私は完全に「?」状態。どうしたのと聞いてもお得意の「別に〜(半笑い)」ではぐらかされる。

お店では特に何もなく、満腹満足でさんぽしながら帰宅。
お互いの部屋で少し休憩していると、夫から「私の部屋に来れる?」というLINEが。食後のSwitchでもするのかな〜とすぐに向かった私を待ち構えていたのは…


真っ暗な部屋に揺れるキャンドル。

床に散りばめられた薔薇の花びら。

超絶ムーディな空間。


一瞬「あれ、部屋間違えた?」とドキドキした。



状況が飲み込めていない私の前にゆっくりひざまずき、指輪を差し出してくれた夫。
え、えー!ドラマや映画でしか見たことないやつ!まさか現実にもあるなんて!

その瞬間は、プチパニックになっていたと思う。目の前で起きていることが自分に向けられている実感が全くなかった。
しかし緊張で少し震えながらも日本語で頑張って想いを伝えてくれた夫に、私は言葉が出ずに何度も頷くしかできなかった。

1ヶ月以上前から指輪を選んだり色々用意していたらしく、夫のサプライズ準備と演出力に感心&感動するばかりの私。本当に嬉しかった。


日本での婚姻手続き1週間後、遠距離になる

その後、私の家族や友人に夫を紹介したり、それぞれ必要な書類を揃えて、役所での手続きは11月8日にした。「1+1=♾️」なんか可愛いし覚えやすいし良くない?というこれまた中学生みたいな適当な理由。

その時点で夫のビザ期限は残り1週間。あぁ…なんて残酷な世界。
結婚してハッピーなはずの余韻に浸る間もなく、フランス側の手続きも進めるために急いで書類を整え大使館へ提出。そうこうしていたら夫の出発日が来てしまい、羽田へお見送りに。
いっしょに新生活が送れるのはビザが降り次第なため、それがいつになるか分からない不安と悲しさで、お互い顔が見えなくなった後に泣いた。
その時の感情は思い出してもちょっと辛くなってしまう。


夫、5ヶ月ぶりに日本へ戻る

一時は戦争の影響で国際郵便が不安定な状況もあってヒヤヒヤしたが、やっとのことでフランス側の婚姻手続き、配偶者ビザの手続きもなんとか終わり、ついに夫が日本に再入国できる日が決まった!

それまでは毎日、夫と連絡を取り合いながらも何か進捗がないか、何でもいいから郵便物が届いてないかポストを確認する日々で、地獄のように長く感じた。大事な郵便物が届いた時にはいつも声をあげて喜んだし、すぐさま夫とビデオ通話、家族やシェアメイトにも報告しまくっていた。自分事のように喜んでくれ、夫への再会を楽しみにしてくれるシェアメイトたちにはかなり救われていたし、友達以上もはや家族のような関係で最高に居心地がよく、かけがえのない存在だ。

お迎えの日。空港でひとり待ってる間は無事に着いてくれるか心配で、緊張して手汗が止まらなかった。
ゲートから出てきた夫の顔を見た瞬間、一気に気持ちが緩んで、お互いハグしながら感極まる。地球上のどこにいても1番安心感を感じられる相手だと再認識。ソウルメイトってこういう人のことをいうのかぁなんて、喜びながらもどこか冷静に噛み締めていた。

夫が戻ってから1ヶ月ほどで新居が決まり、2人でシェアハウスを出た。
大切な人と出会い、個性的なメンバーと濃い時間を過ごした思い出いっぱいのシェアハウス。人との出会いや繋がりはいつも予定調和になんかいかなくて、でもだからこそ楽しいし尊いものだよなぁとたくさん思わせてくれた場所だった。


2年も経たないうちにフランス移住が決まる

新生活が始まって1年弱、移住が決まったのは割と突然だった。
2023年の春先に夫の身内に不幸があり、夫だけフランスへ一時帰国。日本に戻ってきてからいろいろ話を聞くと年内には移住する可能性が高いと。
理由はやや複雑なので割愛するが、ごく簡単にいえば家族のケアが必要になった。

日本が大好きでこれからも住み続けたかった夫は、移住以外の方法はあるか、移住するにしても時期や段取り等もろもろ検討したのだが、やはり最終的には夫婦揃って年内、クリスマス前に引っ越そうと決めて動き出した。

正直いつかは移住することもあるだろうな〜くらいに構えていたので、急にあれこれ準備が必要になり少し焦った。が、つらい!大変!みたいなネガティブな気持ちはそんなになかった。


そして今現在、なんとか引っ越しも完了しフランスで生活している。
まだまだ義母宅に仮住まい中だったり移民局からの連絡がなかったり(滞在許可証を受け取れていない)と問題は山積みだが、こんな経験もフランスに来たからできているわけで。約8年も日本(外国)で生活していた夫、はたまた両親への尊敬の念が日に日に増している。

日本にいた時、私はWebシステム開発&デザイン会社や輸入食品店、ナチュラルワインショップ、飲食店等で働いていて、その経験を活かすこともできそうだが、なにか新しい仕事に挑戦してみたい気もする。何はともあれまずは働けるレベルまで語学力を伸ばさないといけない。

これからもっとたくさん苦労はあると思うけれど、今までもドタバタしながら乗り越えてこられたから、何が起きるか分からない人生を楽しむ準備は万端!どんと来い!という気持ち。


まとめ

さて、こうして文章にして思い返してみると、コロナ前に東京へ出られるチャンスを逃さなかった自分の直感は間違ってなかった!と改めて感じる。
そこから3年間の人生の勢い、我ながらジェットコースターすぎでは?あのまま地元に残っていたらと思うと震える、、もちろん地元は家族も友達もいて大好きだし落ち着くけど、そこでずっと暮らしている自分はやっぱりちょっと想像できない。

大学受験で第一志望校の合格発表を実家のパソコンでみた時、かなり落ち込んだし、滑り止めの大学は行きたくないと母に軽くゴネてみたし(なんて贅沢な…)、絶対この先なにも楽しいこと起きない、人生オワタと極端に不貞腐れたのを覚えている。

でもその時、父に諭され入学して大正解!
大丈夫だよ高校生だった私!!というか結果的に大丈夫になったよ!!!

滑り止めのその大学で、当時から10年以上仲が続いている素敵な友達にたくさん出会えたし、変な期待なしに入学したおかげ(?)でチャラチャラしすぎず自分が本当にやりたいことに向き合えてた気がするし、そこでの経験は全部いまの私に良い形で返ってきてるから!

きっと何もかも見透かしていたであろう両親には心底感謝してもしきれない。親ってすごいなぁとしみじみ思うわけです。


たかだか30年しか生きてない私が言うのもアレですが、人間どんなに時間がかかっても、自分の興味や やりたいことを忘れずにずっと心の中で大事にしていれば、いつかどうにか自分がしたいような人生に持っていけると思う。

それだけは絶対に他人が侵せる領域じゃないし、むしろ土足で簡単に踏み込ませちゃいけない。もし外野がとやかく言ってきても、スポンジみたいに全部吸収する必要なんてない。これから自分の役に立ちそうなポイントだけ、いただきまーすって咀嚼して、あとは軽く流しながら生きていい。なんかビュッフェみたいな感じかな、選択肢があったとして、苦手なものまで無理して取り入れてたらお腹壊して消化不良になっちゃうよね?

「苦手を克服しよう」という考え方もあるけれど、個人的には賛成できない…というか私には合わない。実際やってみたことは何度もあって、回り回ってやっぱりできないことはできない、「好きこそものの上手なれ」だ!という結論に落ち着いている。もちろん克服できる人は素晴らしいしどんどん続けていって良いと思います。

話が逸れた。つまりは、省エネモードでもいいから、自分の興味関心事にアンテナを張り続けていれば、自然とチャンスが訪れたり、ご縁に恵まれたり、人生の方から歩み寄ってくる瞬間はきっとあるはず、ということ。完全に受け身だと難しいから、掴めるタイミングは自分でしっかり見極めて行動に移す必要はあるけどね。

私もそんなに器用な方じゃないし、心無い言葉にメンタルやられることもままある。というか20代は結構そんなことばかりだった。
でもさ、結局死ぬまで自分に向き合い続けなきゃいけないの自分だけだから、自分がハッピーでいられる方を選んでいきたいよね。


つまるところ何が言いたいかというと…
これからも自分の心を大切にしながら、素直に、しなやかに、愛をもってしぶとく生きていこう!!!
って話!!?まとまらない!


適当でも案外どうにかなるもんだよ!!(雑)



なんだかぐだくだな終わり方になってしまったけど、ここまで読んでくれてありがとうございました😊

私の経験を少しでも面白いと思ってくれたり、これを読んで心が軽くなってくれる人がいたなら嬉しいな。


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