見出し画像

“普通”のクリスチャンがジェンダーとかセクシュアリティーについて語ることの難しさについて

「難しい問題だよね」

そんな言葉を何度口にし、耳にしてきたことだろう。
言うほど難しい問題だろうか。それとも、言っているだけだろうか。

実態は、とんでもなく難しい。
自分の立場を守りつつ、問題について考え、発言することが。

(※今回の記事は、アセクシュアル以外のセクマイについて言及していますが、わたしの知識不足とこれまでの経緯のため、人によっては不快感を催す可能性があります。今現在、傷が開いてしまっている人、疲れている人は、どうぞご注意いただき、ご自愛ください。)

炎上した動画の件

先日、ある牧師の主催する動画が、Twitterで軽く炎上した。
牧師の恋愛相談というテーマで、同性愛に関する質問に対して、「秘めたる想いより先の行為の実践はお勧めしない」という主旨の発言があったためだ。
わたしは動画自体は見なかったが、文字起こししたものは読んだ。
動画に反論する人のツイートや、当該牧師や主催牧師がTwitterやFBで行った補足説明ややり取りの応酬も見た。
その後、主催牧師が動画を削除し、次の配信冒頭で謝罪を行なった。
発言した当該牧師も、後日鍵垢で謝罪文を掲載した。

わたしは当事者ではない。
今回、動画のネタとして扱われた同性愛者ではない。
でも今回の扱われ方では、同性愛者の肩を持ちたいと思った。
同性愛を批判するにしてもやり方があるというか、少なくとも「相談」として送ってきた人に対して、誠実な態度ではなかったと思うからだ。

キリスト教界の人権意識の低さ

このところ、アセクシュアルである自分ができることは何かないだろうかと考えていた。
カムアウトする気は今の所ないけれど、なにか啓蒙活動というか、ほかの人の助けになるようなことができないか。

今回の炎上事件を通して、「そもそも日本のクリスチャンの多くは、ジェンダーだとか人権だとかいう意識に疎すぎないか」と感じた。
セクマイだけではない。
日本のキリスト教界は、いまだに女性差別が横行しているし、意識の変革もあまり起こっていないような気がする。
「すべての人は神の前に平等である」と宣いながら、実態は“神様から見たら差別はないから、人間からの差別を気にするのはよくないよ”である。
これはあまりにも酷くはないか。

ところが、わたしはそういった話題を、毎週の礼拝説教ではもちろんのこと、カンファレンスやリトリートの分科会などでも聞いたことがない。
おかしくないか。

「やばい」視線は無知の裏返し

ずっと燻っていた思いが爆発して、顔の広い友人に相談した。
「ジェンダーやセクシュアリティについての勉強会をしらないか」と。

件の炎上の話にもなった。
「こういうこと、詳しくないけど知らないといけないな、と思って」
と、さも「今回はじめてハッとして」風に聞いたところ、共感とともに、「以前友人に連れられていったクィア神学の学びがあるけど、ちょっと危ない感じの内容だったから、気をつけたほうがいいよ」と釘を刺された。

「この人、放っておくと危ない側に行ってしまうな」
と、判を押されたのが分かった。

そうか、わたしは「危ない思想に傾いているやつ」扱いになったのか。


数年前まで「普通の」クリスチャンだったわたしにとって、この感情の向きは見知らぬものではない。
わたしもそういう感覚を持っていた。
いや、今でも持っている。

渋谷区でパートナーシップ制度ができたときも、クリスチャンの友人とはよると触ると、それについての意見交換をしていた。
これも礼拝説教で聞いた話ではない。
それぞれが、福音派の立場でどう考えるのかという、意見のすり合わせをしていたように思う。
その時の主流の意見は、「人を好きになる感情自体はダメとは言えないけれど、性行為はダメだろう」という、先日の炎上発言と同じ論調だった。
(もちろん、パートナーシップ制度はより所帯じみた、病院とか税金とか相続とか、そういう案件にこそ意味があるのだろうけど。)

そのときは別に、聖書を紐解いてみんなで一生懸命読み込んだわけではない。
これまで受けてきた聖書教育、教会教育を寄せ集めた結果、そういう結論になっただけだ。
わたしの場合は、だいたいこうなる。

1.聖書は、婚姻関係外の性行為を(妄想を含めて)禁じている(十戒および福音書の記述)。
2.ソドムとゴモラが滅ぼされた罪の中に、男同士が男女のような行為を行なっている、という記述がある。
3.パウロ書簡には、神殿娼婦や神殿男娼を糾弾する記述がある。

その箇所が歴史的にどうだとか、どういう解釈があるかとか、そんなことは知らない。
(1.については男女にも当てはまることなので、クリスチャンは基本的に純潔を守るということになっているだろうけれど、実際のところどの程度みんなが守っているのか、わたしは知らない。そういう話になることがないからだ。)

さて、このような意識でいた「普通の」クリスチャン時代のわたしは ー「普通の」というのはつまり、ヘテロ・シス女性のわたしはー いわゆるリベラルな立場のクリスチャンが同性愛を擁護することが不思議で、「何かよく分からない、漠然と怖いもの」だと感じていた。

そのころのわたしだったら、友人から「ジェンダーとかの問題に興味があって」と言われたら、「あ、ヤバい方向に行きそうだ」と感じていただろう。
それはまるで、567デマの情報に興味をもっている友人を前にしたような、危機感と「触らんとこ」感がない混ぜになった感情だ。

だから、自分が同じ感情を向けられればなんとなく察するし、そう感じてしまう気持ちもわかる。
それが嫌だから、これまでずっと黙っていた。

“普通”のままでできることは

これが、“普通”のクリスチャンが置かれている難しさだ。
誰だって、「こいつヤバい」「こいつめんどくさい」、とういう視線を向けられるのはいやだ。
だったら黙っていよう。
どうせ自分には、直接関係がないことだから。
自分以外の誰か、「めんどうで小うるさい人」が、問題に対処してくれるだろう。

こんな風に感じている「普通の」クリスチャンは、多いのではないだろうか。

でもそろそろ、そんなことでいいのかな、と思う。
セクマイのことだけではない。
キリスト教界内で、もっと言えば教会内で、「女性である」ことで受けてきた差別やハラスメントはないだろうか。
「男性だから」押し付けてきた役割はないだろうか。

ある。いっぱいある。
そしてそれは、今でも続いている。

雑誌「百万人の福音」2020年1月号で、“年若い女性の異性交友関係をからかう”ような記事に、わたしは全力で抗議した。
メールも送ったし、周囲の人に話もした。
「それは大変な問題だ。自分も抗議をする」と行動した人もいた。
「そんなの、よくあることじゃん」と笑って流した人もいた。
年齢や性別、海外経験の違いは、それほどなかった。
若い女性でも「そんなの流しなよ」という人もいれば、年長の男性で「けしからん」と憤る人もいた。

こんなことでいいのかな。
こんなことをずっと続けていたら、“普通のまとのな”人権意識を持った人は、教会に近寄らなくなるんじゃないだろうか。

そういう危機感から、わたしはもっとオープンに、ジェンダーやセクシュアリティ、そこにある差別や偏見や圧力について学び、どう対応すればいいのか、ということを学びたいと思う。
そのための場所がない。
今あるのは、当事者や被害者が開く勉強会がせいぜいだ。
そこには、マイノリティしか集まってこない。
そこに加わると、「あなたもそちら側なのね」という視線が飛んでくる。
そういうのは嫌だ。

正直にいって、わたしは“普通”でいたいのだ。
シス女性なので、女性差別について声を大きくするのは、まあいいけれど、同性愛者ではないので、「LGBT=ゲイ=ふしだら」という認識しかないキリスト教界で、セクマイとして声をあげるのは嫌なのだ。

当事者の痛みに、心から共感できなくてもいい。
わたしの痛みはわたしにしか分からないし、わたしは自分がとことん痛むまで、痛みの種類に想像が及ばなかった。
いまでも、例えばアメリカの人種問題や移民問題に関わる差別については、対岸の火事のように眺めてしまう。
過剰反応しすぎじゃないかと感じることもある。
それは、わたしがそういう問題を肌で感じていないからだ。
でも、アメリカではそういう配慮が必要なことは、なんとなく察することができる。
日本における差別問題の解消表現として、アメリカに倣う必要はないだろう。
でも、日本特有の事情はあるわけで、それに即した対応を考えて生み出していかないといけないと思う。
そういう話を、できる場所が欲しいなあと思う。

そういう学びを、どこかでできないだろうか。

普通のクリスチャンが普通のままで、“普通じゃない”ことについて学べる場が、いま切実に必要な気がする。

Makiのコーヒー代かプロテイン代になります。 差し入れありがとうございます😊