【SHORT STORY おとなの、とるにたりない日々に】 STORY 1 :自分で自分をもてなせる 〜のぞみの場合
30歳になったら力が抜けて楽になるよ、と、25歳の頃、前職の先輩に言われたことを思い出していた。
全然楽になんかなんないよー、とひとりごちて、シャワーを止めた。湯船にそっと体を沈める。
25歳の夏、前職の会社の先輩たちと、梅雨の合間の晴れた夜、お洒落なダイナーでスパークリングワインを傾けていた。
大人の小粋な夜を知った気になって、いろんな遊びを経験した気になって、でも若さは武器だと知っていたあの頃。
アパートの足の伸びない湯船の中で、三角座りをして、ガサガサになったてのひらを見つめている、今。
「おもてなしって言うのに、華やかさが足りないんだよなあ、料理に」
今日のそのひとことを思い出すだけで、泡となって消えたいような、牙を剥きたいような、2つの真逆の衝動に駆られる。料理研究家のアシスタントになって4年。今日の現場は、先生が半年前から有名ファッション紙の中頃にページに連載を依頼されている、おもてなし料理のコーナーだった。
−雑誌のコーナー、好評だし、今度の撮影はのぞみちゃんのレシピも使っていこうかなと思ってるの。
数週間前の先生の言葉。独立を視野に入れた大事な1年とひそかに決めていただけに、猛烈に嬉しかった。書き溜めていたオリジナルレシピの中から、絶対自信作の、鶏モモ肉のハーブソルトグリルを選んだ。
それなのに。
「華やかさが足りないんだよなあ」
今日の撮影で一緒になった、若くして著名なカメラマンの一言。耳の中にざらざらと残って離れない。
料理に華がない。
今まで何度も言われてきたことだった。その前後に「おいしそうなんだけどね」と付くことは多かったがーーこの世界、まず目に止まらなければ採用してもらえないこともまた事実だった。
言われる度に傷付いたって仕方ないのに、と思いながらも、湯船の中で、膝と胸の間の水面に口を埋めて、「うー」と息を吐いた。もう長いことを口にしていないスパークリングワインに近づかないかなと思いながらセルフ泡立てをしてみたけれど、ぽこぽこ、と情けない気泡が出るだけで、あのシュワシュワとは似ても似つかなくて、思った通りただただ虚しかった。
25歳のあの夏。
表面では楽しそうに、悩みなんてない若者みたいに振る舞って、都会でスパークリングワインを楽しんでいた私は、料理研究家になりたいという夢が消えないように、でもそんな思いに気づかないふりをして、蓋をしていた。
大学に在学中、ひとり暮らしの部屋のたったひと口のコンロだったけれど、料理にはまった。狭い台所でも温かいものと冷たいものをタイミング良く出すメニューを考えては、当時持っていた一番美しいノートに、できるだけ丁寧な字で献立一覧を書き足していった。
中堅メーカーの事務職に就職し、コンロの数は2口になった。
休日は、平日に構想したレシピを作ってみることに時間を費やし、時々実家の家族や友達に振舞っていた。
ひとり暮らしでも、小さな台所でも、美味しい料理が作れるということを、少しでも多くの人に楽しんで欲しい。
ただの趣味ではなく、段々と自分の夢と成ったことに気付いた。
気持ちに蓋ができなくて、26歳で会社をやめて、紆余曲折の末、今の先生のアシスタントができている。
だから、あんな何気ない言葉に傷つく必要なんてない。とるにたりない出来事なのだ。
そう思えば思うほど、言葉が頭から離れなくなるのだった。
22時。
れた髪を乾かしながら、ふと、食事をとっていないことに気づく。
冷凍庫をガサガサと漁ると、冷凍した鶏モモ肉が1枚、ごろん、と出てきた。
そうだ。
頭に思い浮かんだことに、ほんの少しだけ高揚するのがわかる。
肉を解凍しているあいだに、家に1組だけあるグラスを用意する。低い脚が角ばった、小ぶりのグラス。蛍光灯の光でさえ、当たると魅力的に煌く、薄い飲み口。
やっぱりあった。冷蔵庫の奥に、スパークリングワインのミニボトル。
乾燥ハーブと塩を混ぜて鶏肉にすりこみ、皮目からパリッと焼き付けて・・・。
今日撮影スタジオで準備したように、ひとつひとつを丁寧に作業していく。あのいやなひとことはまだ振り払えそうにないが、ほんの少しだけ遠のくよう、祈りながら。
オーバル皿に出来上がりを乗せ、小さなテーブルに運ぶ。
スパークリングワインを用意していたグラスに注ぎ、ひと口飲んだ。続けて鶏モモを頬張る。
二口、三口。
食べる。飲む。食べる、飲む。
冷たく弾けるささやきと、熱い食感だけを堪能することにした。
食べ終わる頃、私は気づいているだろう。
どんなときだって、おいしく食べられるのは幸せだということ。
みんなとだってひとりでだって、そのおいしさを作る喜びに関わるということの幸せを。
自分のやっていることを信じる尊さと難しさを。
そして、そんな風に難しく考える自分がやっかいで、実はいとおしいことを。
自分で自分をもてなせる、ということを、おとなの私は知っている。
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