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個人の一次創作のコンテンツ論について、二次創作との違い

blenderの素体流用システムについて記述しようと思ったら別の事かきたくなっちゃった……

一介のオタクとして、気づいた事というか
要するに創作の重要度というか、まず考えるべき順番がある

二次創作は何故流行るのか、それは界隈として巣になりやすいという側面がある

"公式" から 世界観 と キャラクターデザイン が設定されておりその偶像を崇める土台が出来上がっているから、そのキャラを自己流に模倣して、自分流の物語を添加する事で、その界隈に貢献ができるという事

やはりそれを支えるのは個々の狂気的なキャラ愛や世界観への愛であり、公式の供給、言い換えれば宗教教団のお告げと、信者の関係性が出来ている

二次創作は大きくなればなるほど、その界隈への貢献で信者もまた収益性を上げる事も出来たりする、これは良し悪しは人それぞれといえ、二次創作のその界隈が活気づく理由の一つとして十分である
であるから当たったコンテンツの二次創作は流行り、供給元も儲かる、すると当たったコンテンツも次の系譜を継いだコンテンツを制作する

個人の一次創作は何故難しいのか、それは素手で岩の洞窟を掘る事に等しい

要するに私が興味を持っている個人が作る一次創作は、他人からすればそもそも価値が無い、これは一次創作をやろうとしてるコンテンツ生成者はどっかのタイミングで察する、年齢が理由か、疲労か、何かのきっかけで気づく
作れれば偉い出来上がったら偉い というのは 作業者としての自己満足の領域でしかない

一次創作とはそもそも会社がコンテンツを作る時の苦しみと全く構図を持っており、挑戦する9割の企業が失敗なりして落ちていく、それを個人でやろうとすれば更に困難なのは言うまでもない、金銭やマンパワー、不利な事は目に見えて多い

つまり個人が一次創作という自己満足に向き合ってる時点で評価される事はそもそも諦めるべきである

理由は簡単で、企業はお金(生存)が掛かってるからもっとシビアなのだ
同じ構図で、漫画家がある、これは個人に近い業態かもしれないけど、連載が始まったならそれは組織として組み込まれている、担当を付けてる理由はまさに生存が掛かっているからだからだ

・異性として魅力的な造形をしていないキャラだけで固めたソシャゲ
・外に出ない老人をテーマにした漫画
・ただ海岸を歩いてるだけの映画

お金を払いたいと思うだろうか? 物好きは好きと言っても、それが良いと言うか、商売として成立するだろうか
エンタメはエンタメ、死ぬ気で相手を楽しませなければならない
時に低俗や卑猥、反社と罵られようが 生活と生存が掛かっている
農業や工業に関わらないのであれば、死ぬ気でサービスするしかない

死ぬ気で楽しませた対価としてお金を貰っている

企画を練る側は戦略を立てる、どういう風にかっこいい&可愛い子をだそうか、キャラのシナリオをどう盛り上げていくか、どういう客層がどういうキャラを好きになって、同世代に何がウケたかの研究をして、実践に向かう

刀を擬人化したらどうだ、ウマを擬人化したらどうだ、銃を女の子に持たせて打ち合いさせよう
一見すれば「なにいってだこいつ」という企画だが、企画する側は全く以て必死である、そして結果的に当てている
 物質や人間以外に愛着を持ちやすい日本人のアニミズム的な考え方にマッチしているからか、理由は何等かあるだろうけど、それはまた別で書く事にしたい

死ぬ気でという書き方をしているけれど、元来人間は頑張ってるときは死ぬ気だと思ってるのでこういう書き方をしている、気に障る書き方なら申し訳ないとも思う

じゃあ個人の一次創作に価値は無いか

それもまた違う、確かに自己満足の極地だが、人は常にリーダーを求める性質がある、狼が群れの中でリーダーに従うのは、その方が生存性が高いとか色々理由はあると思うけれど、結局は先頭にいようとするのはとても疲れるし、人間は全員が全員そんなにタフじゃない、思い思いに考えてる事も違う、そんな中で一次創作をしたいと思うのはそういうちょっと変わったタフな人という事でそれ以上でもそれ以外でもない、大抵はそんな面倒な事やりたがらないだろう

そもそも生物の本質は種の生存で、やりがいとか生きがいとかは食料過剰になり始めた文化圏特有の概念である、一次創作をするものが増え始めるという事は文化文明がそもそも発達し始めた(ている)証明となる

つまり工場とか農場の分かりやすい成果物が、生産性の向上で人手が足りるようになり、あぶれた人的資源達が脳と時間の空いたスペースを回転させ始めると、人はつまらない事を考え始める

それが生きがいやりがい サバンナの野生動物達からすれば、後進国の戸籍が無いまま生まれた人達に比べれば とてもつまらない事に違いない
しかし我々の先祖もまた、余裕が出た時に縄文土器を作っていた、浮世絵を描いていた、血の記憶の中に、創作力が組み込まれているから仕方ない

その地の記憶と幼少期の褒められた経験、楽しかった記憶がきっと創作に走ろうとするきっかけだろう
そのきっかけが年齢を経るに至り、案外普通に生きてる今の状態に安心感と不安を覚え、その結果生きがいややりがいの証明として、人は何かを作りたがる、個人の一次創作のスタートは大体そんなところだろう

そんな途中で生活環境の変化とか、色々な事がある中で篩に掛けられたり、結婚とか何かで子供が出来ると、生きてる事の証明が子供を育てる事へと変わっていく事になる

……書いてて何とも自省的というか、やはり社会組織に対して何もできない自分への罪悪感を書いてるんじゃないかという焦燥を感じる……

ともかく、個人の一次創作が生きがいややりがいの証明だから価値が無いと言いたい訳ではない、むしろ健全で他人を攻撃したりしない、一番有意義な精神安定剤として個人の一次創作が機能する事を私は知っている、ただ、文明の中の、というドデカイお題目を立てて見ると、子供の我儘と変わらない

しかしそれでも一次創作は行われるべきである

これは単純な話で、知的財産権が保証され、特許でお金を稼げる、コンテンツで収益が上げれる現代において、全体のパイを増やす手段は一次創作しかない、二次創作のコンテンツが膨らむのはあくまで内需的で、一次創作のコンテンツが膨らむのは外需的なのだ

言い換えればグローバリズムが進んでしまった今における外貨獲得手段としてエンタメは一次創作をし続けるしかない、企業は正にその外貨獲得が重要だから必死に一次創作の企画をする、ただ企業も勿論企業内の組織だけでは一次創作の企画適正がある人間がいなければ、そういう努力も出来ない

個人の一次創作とは言わば、企画を作る為の頭の回転をする訓練の側面もある、企業がこれを育成する事は難しい、学校で教育する事も同じく難しい、やはり自主的に何か作ろうと考える意思が必要である

実例を踏まえて記述すると
一時期エロゲ界隈でシナリオへの注目度が高まって、そこから輩出された人員がアニメのシナリオやゲームのシナリオに起用された例がまさに
一次創作が行われるべき理由に近い、最近で言えばなろう系も

個人の一次創作は生活や生存の危機に直面すると進化する、それが組織と紐づいて人員を動員できるようになると更に進化する

よって、あらゆる個人の一次創作活動は評価されるかされないかは全く以て保証されないが、意味があると信じている

そして、評価されたいのであればまず客を見る必要があり、次に運が必要である

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