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「物語」の危うさを「物語」から感じる~映画『プリンセス・ダイアナ』感想~(ネタバレ)


『プリンセス・ダイアナ』を見た。
ダイアナに関するニュースやインタビューの映像などを繋ぎ合わせて作られた、ドキュメンタリー映画。監督はエド・パーキンズ。
ちなみに同時期に、同じくダイアナを描いた映画『スペンサー/ダイアナの決意』が上映中で、クリステン・スチュワートがダイアナを演じている(こちらは未見)。

印象的だったのは、今作の「物語」というものに対する姿勢だ。

パンフレットでのエド・パーキンズ監督のインタビューでは、「ストーリー」という言葉が多用されている。例えば、
「ドキュメンタリー作品を企画するとき、最初にストーリーがどうなるかという考えに凝り固まりがちでしたが、今回は、アーカイブ映像の中からストーリーを見つけ出さなければならないということが、私たちにとっての挑戦でした。」
「回顧録分析やインタビュー映像のない本作を通して、自分なりの推論を行い、自分自身の結論を出して、できれば自分の中でこのストーリーを新たに再構成してほしい。」
という発言がある。
なるほど、本作は、ナレーションを一切排除しアーカイブ映像のみで構成されている。これは、作り手が「物語」をわかりやすく語らないように、あくまで観客が自分自身で考えられるように意図した結果のように感じる。

また、作中の様々なフッテージで、「物語」を作り出そうとする側、その「物語」を受け止める側、両者の危うさが映しだされていたと思う。
あいつは悪い奴だ、でもあの人は善玉、ダイアナは今こういう気持ち(のはず)だからこのように行動する(に違いない)、誰々にとってはハッピーエンド、いやバッドエンドだ、と様々な人が、意図的にしろ、意図的でないにしろ、そこにあるはずがない「物語」をいつの間にか作り上げていってしまう。
誰かの活動や、その人の一生を「物語」として消費しようとしたり、声の大きい者がその「物語」を既成事実として利用しようとすること。その行為の危なっかしさは、最近でも、五輪の強行開催や様々なニュースでひしひしと感じられる。

そんな「物語」を紡ぐ行為の危険性を、ドキュメンタリー映画という「物語」から感じるのは、ちょっと皮肉なことなんだろうか。

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