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コミュニティと商業のポリシーミックスで地域という”ため池”を再生する

都市経営プロスク読書部の取組も今回で最終回、課題本は小熊英二氏の「日本社会のしくみ」です。

現代社会の「しくみ」が歴史的にどのように形成されてきたかということを、外国の事例を補助線としながら、かなり広い範囲から見渡すことのできる一冊となっています。

どのように日本社会が形成されてきたのか?

まずは本書の内容から、現在の日本社会が形成されるまでのおおまかな経緯を時系列でまとめておきたいと思います。

①明治維新に際しまず政府セクターに「官僚制」が欧米列強から輸入された。当時は飛びぬけて最先端だったそれを当時の民間企業がまねて移植することで、「官僚制」をベースとした現在の「大企業型」の雇用形態が社会全体の構造を規定することになった。

②この現象は他国でも見られたが、日本ではギルドなどから来る職種別労働運動や専門職団体の運動が不存在であったため、職種ではなく身分を前提とした社会構造が色濃くなった。

③日本社会は「学歴」という身分による序列化が進んだが、戦後の労働運動と民主化によって、長期雇用や年功賃金が現場労働者にも拡大した。つまりは、「職種の公平性」よりも「社内の公平性」を高める圧力がかかったため、企業を超えた横断的基準が不存在の現代の日本型雇用が生まれた。

④ただし、欧州やアメリカなど他の社会構造を持つ文化も、同様に長い歴史を踏まえて現状に至っている。それぞれメリットとデメリットがあり、いいところだけを採用することも、積み上げた文化を無視して他の制度を採用することも馴染まない。

社会は複雑であり様々な例外を発見することはできるだろう、としつつも、大枠としてこのような私たちの社会の捉え方をしています。

一方で、日本社会のメインストリームと捉えられがちな「大企業型」は社会全体の26%程度を包括しているにすぎず、社会関係資本を駆使する自営業者などの「地元型」が36%、前述2つのどちらにも区分されない「残余型」が38%程度であると推計しています。

大胆な仮説を述べるならば、そもそも日本では、一人の男性の賃金収入だけで十分な生活を営める人々が、全人口の約三分の一を超えたことはなかったと思われる。残りの人々は、親族からうけついだ持ち家や地域的なネットワークなど、貨幣に換算されない社会関係資本の助けを得て、一家総出の労働で生きていた。彼らが個々人の所得の少なさを家族関係と社会関係資本で補っていたことが。「一億総中流」の前提だったのだ。(P568)

確かになかなか大胆な仮説ですが、目からウロコとも言えるのではないでしょうか。

「地元型」というため池の弱体化

さてこの前提で現在どのような問題が生じているのか、ということが次の文に集約されています。

この三十年あまりの日本の変化は、「大企業型」の増加が頭打ちになるなか、自営業セクターの衰退と社会関係資本の減少が進んできたというものだったと考えられる。そうした変化のなかで、かつての社会契約の「約束」の有効性が懸念されるようになった。(中略)ここで序章で挙げた、二〇一八年の経団連の報道を想起していただきたい。「学歴」が高く、全員が勤続年数を重ねた、男性高齢者が正副会長の全員を占める。これは本書で述べてきた「日本社会のしくみ」がかつての活力を失った状態を、集約的に表現している。(P568)

「学歴中心」「男性中心」「年功序列」という軸が社会変化によって機能不全を起こしているのが現代社会の姿と言えます。

また、社会関係資本の減少と「地域型」の雇用が失われるなか、「大企業型」以外のスタイルとして社会を安定させていた、いわばため池のようなシステムが崩壊しつつあるとも考えられます。そしてその受け皿が派遣など「非正規雇用」になっているのです。

これは前々回の課題図書に関することですが、このような既存の社会システムでは、ハンデを背負わされる若い女性、非正規雇用によって収入の低下する若い男性は結婚が遠のき、少子化をも促進させていると言えるでしょう。

私なりに付け加えると、一方で「大企業型」の役割も軽視してはいけないということです。会社組織の働かないイマイチな中高年など停滞の象徴とされていますし、実際色々困るわけですけど、もし本当にそういうのをやり玉に挙げて「大企業型」というため池まで壊してしまったら、もう日本社会に防波堤はいよいよなくなってしまいます。そうすれば内需が大きく減少し、日本社会全体が沈没していくでしょう。

「大企業型」を特権身分のように扱うのではなく、過去の労働運動がそうしてきたように、いかにすればその水準に引き上げることが可能か、という視点から行動をしていく必要があります。

本当は高齢者は若者に必要とされている

川崎のとある場所に、若い男性の店主が経営する非常にセンスの良いコーヒー屋があります。そこは古い昔ながらの商店街の一角に位置し、突然そんなお店ができたことに誰もが驚きました。

店主に話を聞くと、しばらくはイベントでコーヒー屋台を出し腕試しをしながら、元々靴屋をしていた地元の高齢者の知人が持つ空き店舗を借り、そこでお店を出したとのことです。内装も最小限の費用に抑えながら、元からあるものを活かしセンス良くまとめています。コーヒーもうまい。

そのお店には近くの若いダンサー(こわもてだけど凄く礼儀正しい)が集まるだけでなく、営業中のサボリーマンっぽい人もいれば、高齢者が集まってきてワイワイやっていたりもします。まさに(場合によっては補助金で運営されることすらある)コミュニティカフェが喉から手が出るほど作りたい絵を実際に作ってしまっているわけです。

年代別金融資産

上の図は総務省統計局の2020年家計調査報告ですが、見ての通り若い世代は金融資産がマイナスであり、自らに投資をする余裕は多くありません。

また、商店街ほか街の空き家というのも比較的高齢の方が所有していますし(ちょうどいいデータがないので体感ですが、相続でいきなり孫に渡すケースは少ないでしょう)、町内の合意形成もどこも高齢者が握っていることが多いです。

つまるところ実は、チャレンジをしたい若者が必要としているものは、その多くをまちの高齢者が持っているのです。そしてそれを容易にするのは、まちの高齢者と若者のゆるやかなコミュニティの連続性から来る信頼感であるとも考えられます。(もちろんそういったものを提供するつもりは一切なく若者を指導監督してやろうという方とは誰もお友達になれないでしょうが)

その点、埼玉県の草加市で行われている「そうかリノベーションまちづくり」では、非常にうまく空き家・商店街再生をしかけて成果を出しています。

地域における行政の施策のあり方として、「地元型」というか高齢者メインの部門、「大企業型」からちょっとはみ出したい人とつるむ部門、純粋に商業振興だけやってる部門と、守備範囲が分かたれがちではないでしょうか。しかしこういった上記の前提や動きを見ると、その全てを行ったり来たりするポリシーミックスが成果にコミットするための最低条件であると理解できます。

「大企業型」に収まらない若く意欲のあるチャレンジャーをグリップし、「地元型」の資産を持つ人々と信頼関係を生み出しながらマッチングし、地域の産業を再生する。そういう動きが真にまちの未来を考えるのであれば公と民とを、また老若男女を問わず大切であり、失われた「地域型」のため池機能を復活させることで、社会課題にアプローチしなければいけません。

コミュニティを考える人々もお金から逃げてはいけないのだと思います。

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