敢えて「本気の怒り」を引き出して表現したときに起こったこと

昨日は私がシステムコーチング®を学習したCRR Global Japanの15周年イベントに参加してきました。日本全国から個性豊かな100名ものシステムコーチが集結するとんでもないイベントでした!

15年前と言うと、パーソナルコーチングですら日本では”アヤシイもの”扱いだった頃だと思われます。そんな時代からあえてさらにニッチなチームコーチングの流派を米国から輸入されてきているわけですから・・・色々な苦労があったであろうことは想像に難くありません。イベント内では様々な酸いも甘いも語られていました。

ところで、自分自身がシステムコーチングの学習中に、「もうこれは資格取得までやるしかない」と決意した瞬間がありました。今日はそのあたりを記事にしてみたいと思います。


「学びのため」に「本気の怒り」を引き出すことにしたとき

そんなシステムコーチングの学習プロセスは、2日間の基礎コース→3日間の応用コース×4回→9か月くらいの資格取得のための実践コース、この三ステップで進みます。

1年半ちょっと前、私は応用コース最後の回に来ていました。それまでも受ける度にガチで知恵熱が出る(笑)、謎の学習プログラムに戸惑いつつもなんだか引き寄せられてここまで来ていました。そしてこの時はまだ資格取得まで進むつもりはありませんでした。

とはいえ高いお金を払って(笑)来ているし、資格取得前の最期の学習プログラムだし、「これは本気でやらないともったいないな」といった気持ちが高ぶっている状況でした。多分、他の参加者の方も似た感じがあったんじゃないかと思います。

学習プログラムの中では毎回演習をするわけですが、参加者自体が生のチームという訳ではないので、役を決めてそれをロールプレイする形でシステムコーチングをしていきます。※役に入ると侮ることなかれ、この「役に入り込む力」はリアルのクライアントにコーチングする際にとても重要ですが、ここではそこは割愛

そして、私はこの時にガッツリと役に入り、同じく別の役に入っていた他の参加者(今でも友人)と怒鳴り合いのバトルを演じました。

謎の「生きている」という感覚、そこにあったのは自己肯定そのもの

お互いに演技とは分かっていながら怒鳴り合うのですが、どんどんアドレナリンが出てきます。眼の瞳孔はガンガン開き周囲がとても明るく白く感じられ、血管が収縮し手が震えだし、指先はピリピリと痺れはじめます。

何ターンか怒鳴り合いを続けると、全体的にアドレナリンが切れてきてエネルギーがスーっと引いていく瞬間があります。そうすると、我に返ったように自然に「これから私たちはどうすべきなのか」という声が上がってきて、合意がつくられ、この演習プロセスは閉じていきました。

言ってしまえば単なるロールプレイにも関わらず、終わってみると全身クタクタです。ただこのとき、なんだか謎の「生きている」という感覚が身体に芽生えていることに気付きました。この不思議な感覚のインパクトが強くて、後ほどこの謎を解明するために資格取得コースまで進もうと決めたのを今でも覚えています。

この感覚はその1年半後になんだったのかようやく分かったのですが、ただただ自己肯定だったんだと思います。そもそも教育は身体的に湧き上がる情動や感情を否定し制御することが良しとされますし、特に行政職員として常にそういったものを抑圧してきていました。それは社会的な適応として奨励されながらも、同時に強烈な自己否定(身体的な情動と感情の否定)でもあったわけです。

この学習プロセスで全力の怒りを表現し受容されたということは、そういった自己否定とは真逆の自己肯定だったんです。だから、あんなにハードな体験なのに、「生きている」っていう実感が芽生えたんだと。

怒りの奥にある願いに気付く

その後に実践コースを進めていく過程で、自分自身が強力な怒りや不満に取りつかれるパターンに自覚が生まれるようになってきます。それはコーチングのシーンだとかに限るものではなく、生活の全てにおいて起こることです。

人を駒のように取り扱うこと。人を支配しようとすること。人に都合のいい役割を被せようとすること。そういったことに強い怒りがどこからともなく湧き出てくることに気付きます。

怒りの背景には願いがあります。自分自身にとっての願いはなんだったのか?全人格の受容がそこにあってほしい。信頼がそこにあってほしい。自由と選択がそこにあってほしい。社会の礎が嘘と猜疑心ではなく、愛と信頼であってほしい

システムコーチングを学ぶ旅路で知ったのは、自分が何者か、ということだったんだなぁと思っています。


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