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『六番目のアンブローシア』 第一章①

1.封印の森と黒薔薇の契約


 よくぞここまでたどり着けたものだと思う。

 初めて足を踏み入れたこの森は、昼でも暗く、深く、病魔に体を蝕まれたアンにとっては、複雑に入り組んだ迷路にも等しい場所だった。

 普段から、長く歩くと息切れがひどくなり、その後、熱と全身の痛み、咳に悩まされる。だから、アンが森に入ったのは、この日が初めてのことだった。もう十年以上も、すぐ近くに住んでいたというのに。

 何度も気を失いそうになりながら、それでもようやくたどり着けたその場所には、ドーム状の温室があった。ただし全面に貼られたガラスの窓は森の切れ間から陽光を受けるためではなさそうだ。なにしろガラスは訪問者の視線を遮るように濃く曇り、中をうかがい知ることはできない。

 温室の周囲には墓石のようなものが、点々と散らばっている。名のようなものは刻まれていないが、一番手前のものを見ると、苔の下の文字をかろうじて確認できる。

『五番目』とだけ。

 アンはぜいぜいと肩で息をしながら、胸にぎゅっと手をあてて、いつもの痛みと、不安をやり過ごした。温室の出入り口と思しき場所まで行き、おそるおそるドアの取手に手をかける。しっかりと施錠されているような反発を感じたのも一瞬のこと、キィン、と耳慣れぬ硬質な音が響き、ドアは難なく内側に開いた。アンは倒れ込むようにして中に入り、三歩ほど進んだところで、無様に転んでしまった。

 背後でドアが静かにしまる。

 むせ返る芳香。

 その強い香りに促されるようにして、顔をあげた。

 目に映ったのは、そこかしこで咲き乱れる無数の薔薇。その色は、すべてが漆黒。曲がりくねってドームの天井まで伸びるツルには、鋭利なナイフのように太く尖った棘があり、黒い花弁は上質な天鵞絨びろうどのような艶を放つ。禍々しいのに、圧倒されるほどの美しさ。

 ここだ。間違いない。わたしは本当に、見つけてしまったのだ。

「……何者だ?」

 黒薔薇のアーチの向こうから、その人は現れた。アンは地面にへたり込んだまま、言葉もなく彼を見つめる。

 薔薇と同じ漆黒の長い髪。しっとりとした上質そうなシャツも黒なら、腰のサッシュや、細身のズボンもすべて黒。肌だけが異様に白く、アンを見下ろす双眸はこっくりと深い紫色。通った鼻梁、皮肉な微笑を浮かべた形の良い唇。アンは今まで、限られた人間としか接したことがないが、それでもわかる。

 彼は、とても、とても美しい。

 わたしとは、違う。

 ただ―――壮絶な美貌の主ではあるけれど、人ではない。完璧に思える顔と肉体の中、唯一、尖った両耳だけが、彼が魔物と同一の存在であることを物語っている。

 暗黒の大魔法使いラファルガ。

 彼が、そうなのだ。およそ四百年前、このローズリー公爵領の一角、『契約の森』に封印された。

「どうやってここに入った?」

 青年は、じっとアンを見下ろして訊く。アンは小さな声で答えた。

「……普通に。ドアを開いて」

「ドアが開いた? なるほど、そなた、ローズリー公爵家に縁のものか?」

 アンは頷いた。

「娘、です」

「ほほう」

 青年はじろじろとアンの全身を見る。容赦のない視線に、アンはうつむき、頭にかぶったマントのフードで顔を隠そうとした。

 しかしそれは無駄なことだった。青年がぱちんと指を鳴らす。すると、

「あっ……」

 一陣の風がどこからともなく吹き付けてきて、マントはあっけなく剥ぎ取られ、宙を舞う。くつくつと青年は笑った。

「なるほど。ようやく、生きた状態で届いたか」

 どういう意味だろう。アンはおそるおそる、顔をあげる。

 冷たい紫色の瞳が、値踏みするように見ている。

 そこに失望や、侮蔑の色はない。それでもアンは動揺し、また顔を伏せてしまった。

 ローズリー公爵家は代々、美形揃いだという。数えるほどしか見たことはないが、アンの両親も、兄も姉も皆、光り輝く黄金色の髪と、淡い水色か榛色の瞳をしていた。特に母と姉たちは美しかった。肌は抜けるように白く、華奢な肢体に上質な絹地のドレスが映え、小さな耳や胸元を彩る宝石が、神から授かった美貌を際立たせていた。

 一方で、アンは違う。おそらく生まれ落ちたその時から、彼女たちとは根本的に違っている。

 髪色は赤い。栄養不良のためパサついて艶はなく、もつれて広がっている。絶望的に痩せこけた頬や、体。肌は土気色で、所々が黒ずみ痣のようであるが、それが年々広がっている。何しろ骨と皮ばかりなので、瞳ばかりが目立つ。

 緑色のこの瞳は、まるで魔獣のようだと実の母に言われた。吐き捨てるような物言いと、嫌悪感も露わな眼差し。あの時の悲しみは、ずっと胸の奥底でくすぶっている。

 アンは己の容姿があまりに恥ずかしく、どうしていいのか分からなくなり、ただただ地面を見つめていた。すると、

「こちらへ。お茶でもお飲み」

 思いがけず優しい声が聞こえ、再び顔をあげると、青年の姿はアーチの向こうへ消えようとしていた。慌てて立ち上がり、よろめきながら、彼を追いかける。

 黒薔薇に囲われた空間に、細い柱で支えられたあずま屋のような場所があり、彼の姿はそこにあった。水の音がして、視線を転じると、傍に泉のようなものが見える。

 アンはぶるっと大きく震えた。

(あれが……間違いないわ。時空の泉)

 青年は、丸テーブルに着いて優雅な仕草で茶を淹れようとしているところだ。アンはあずま屋の階段の手前で立ち止まった。

「どうした。悪党の淹れる茶など、怖くて飲めないか?」

 悪党―――アンは、ごくりとつばを飲み込んだ。

「魔法使いラファルガ。わたしの名前は、アンブローシア。アンブローシア・ローズリー。現ローズリー公爵の末子です」

 幾度も練習してきた言葉を、よどみなく告げる。青年は自分で淹れた茶を口に含み、興味もなさそうな声で問い返す。

「公爵令嬢が、何用で自らここに?」

「契約を」

 落ち着きを維持しようと思っても、声は震え、脚もがくがくとしている。立っているだけで精一杯なのだ。一方で、ラファルガは優雅に長い脚を組み、ちらりともこちらを見ない。

「わたしと契約して、ラファルガよ」

 辛抱強く、もう一度言う。やはりラファルガはこちらを見ない。

「契約の意味を知っているのか?」

 もちろんだ。何度も、数えきれないくらい、契約について記してある頁を読み込んだ。

「……わたしの願いを叶えて。わたしに、時間魔法をかけて」

「呆れるほどの図々しさだな。契約だと? その体で?」

「……わたしが醜いのは知っている」

「醜いだけではない。そなたは、もうすぐ死ぬのであろう」

 死がすぐそこに迫っていることは自覚している。アンはもう長くはない。痙攣や呼吸困難を伴う発作は、半年前に比べて倍以上に増えている。

「代償についても理解しているか?」

「……この命を」

 はっとラファルガは笑った。そして次の瞬間には、あずま屋から躍り出て、アンの眼前に立っていた。アンは声にならない悲鳴をあげる。ラファルガが恐ろしい形相で、ドレスの胸元をはだけたからだ。黒い痣が広がり、あばら骨が目立つ胸元を。

 羞恥心より、恐怖が勝った。間近で見るラファルガは苛烈な瞳をアンの胸元に見据える。

「わたしとの契約にはそなたの心臓がいる。生きがよく、元気に脈打つ心臓だ。しかしそなたの心臓はどうだ。すでに半分が壊死しているではないか。ようやく生きた贄がやってきたと思ったのに、すでに死にかけた娘とは。それでよく、契約などと口にできる」

「契約……できる」

 恐怖に挫けそうになりながら、アンは必死に己を奮い立たせた。

 しっかりするのだ、アンブローシア。

 今こそ正念場だ。すべては、この瞬間にかかっている。アンはなんとしてもこの男と契約し、望みを叶えなければならない。

(アンブローシアお嬢様……どうか、どうか、ここからお逃げください)

(わしを許してください……おお神様。わしは、とんでもないことを)

 アンは、ぎゅっと一度目をつむり、そうして開いた。まっすぐに、緑の瞳で、ラファルガを見据えるようにした。するとラファルガが初めて、興味を抱いたようにアンの瞳を覗き込む。

「そなたは、まさか」

「契約できる。健康な心臓を差し出すことができる。もし……、あなたが、時間魔法を使えるのなら」

 ラファルガは、ぱっと手を離した。アンはよろめいて、草の上に崩れ落ちる。激しく咳き込み、視界は涙で曇った。

 ようやく少し咳が鎮まって、気づくと、魔法使いは泉の傍らに佇んでいる。アンはふらふらとそこまで行き、同じように水を見下ろした。泉の面は鏡のように静まり、美貌の青年と、老婆のような自分が映し出されていた。

「なるほど。時を遡れば、そなたの心臓はまだマシな状態だと言うのか」

「……生まれつき病弱だった。でも、死ぬほどでもなかったはず。だから、契約はできる」

「しかし契約すれば、わたしに心臓を取られる。それは結局死を意味するのだぞ」

「構わない」

 どうせ今だって、死んでいるも同然の身なのだ。

「時を遡り、わたしを健康にして。もし、そうしてくれるなら……健康を取り戻してから、わたしの心臓をあげる。健康で、あなたが望むように力強く脈動する、わたしの心臓を、えぐり出し、食べればいい。そうしたら……ラファルガ。あなたの封印は解けて、自由になれるんでしょう?」

「本当に、死んでも構わないと?」

「……このままでも近いうちに死ぬ。それなら一度でも健康な体というものを知ってから死ぬ」

 ふむ、とラファルガは思案するような間を置いた。

「時間魔法などと、とんでもないことを言い出す娘かと思ったが」

 アンは眉を寄せた。

「……できないの?」

「わたしは封印された身だぞ。かつて造作もなかった魔法も、この檻の中にあっては大幅に制限されている。ましてや時間魔法など、操ることは不可能だ」

「そんな」

「だが、そなたは幸運を授けられている」

 ラファルガは、アンの額に右手をかざした。すると額が熱を帯び、光が溢れて、小さな緑色の石のようなものが宙に浮かぶ。

「力を内包する希少な緑柱石だ。そなたにこれを授けた者は、今日の日を予測していたのであろう」

 アンは石を見つめ、黙り込む。

 自分が、幸運を授けられていた? 苦しくて辛いことばかりの十六年間だったのに?

「よかろう。このラファルガ、そなたとの契約を締結する」

 言うが否や、ラファルガは右手を振り上げる。黒薔薇が一輪、枝ごとその手に握られた。鋭い棘のせいで、ラファルガの手から鮮血が飛び散る。あ、と思った刹那、薔薇の枝の切っ先が、アンのはだけられた胸元に、深々と突き立てられた。

 呼吸が止まった。

 口から血が溢れる。痛みよりも、恐怖よりも、肉体の奥底が熱くなり、じんじんと心地よい痺れが、全身に広がってゆくのを感じた。

 黒い枝が血を吸いあげ、赤く染まる。枝の先端、漆黒の薔薇の花弁も、真紅の色に変化する。その鮮やかな血の色を、アンはただ、ぼんやりと見た。

 甘美な痺れに、ふらりと倒れそうになったアンを、暗黒の魔法使いが引き寄せ、抱きかかえた。薔薇が強く香り、浮遊感を得た―――次の瞬間には。アンはラファルガと共に、泉に落ちていた。

 冷たく、とろりと粘度を感じる水の中、二人は落下してゆく。苦しくはなかった。ラファルガがゆっくりと右手をあげ、拳を開いた。そこには、先程アンの額から取り出したばかりの緑柱石がある。魔法使いの口から、異国の言葉のような短い呪文が発せられ―――刹那に。石が、弾けるように強い光を放った。

まばゆい金と緑の光が、水を押しのけ、放射状に広がってゆく。

しかしすぐに、どこからともなく濁流のような音が近づいてきた。光が蹴散らされ、アンもラファルガに抱き抱えられたまま、流れに翻弄された。激しく水が逆巻き、どこまでも、どこまでも流されてゆく。やがてその、悲鳴にも似た水の音さえ徐々に遠ざかり、周囲は静寂と、漆黒の闇に包まれた。

(忘れるな―――これより後は、おまえはわたし、わたしはおまえ)

 ラファルガの声が、暗闇に響く。

(もしもこの契約が破られれば、わたしもおまえも、肉体を裂かれ、魂までも消失する)

(だからゆめゆめ、忘れるな―――この契約の意味を。六番目のアンブローシア)

 そうしてアンは、混沌とした闇に吸い込まれ、意識を手放した。


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