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『わたしを束ねないで』④

『わたしを束ねないで』 の続き

④束ねることからの解放

さて、私は現在アラフォーと呼ばれる年代で独身なのだが、30代後半になるにつれ、③で語ったような他人からの不躾な言葉の数々を、段々と投げかけられなくなってきた。
ゼロになったかと言われれば、ゼロとまではいかないし、恐らく心のうちで思われているのだろうが、直接言われることがなくなってきた。

「多分、"そういう"人なんだろう」という謎のあきらめにも似た感情を抱かれている空気は感じる。
束ねられる事から解放されたというよりも、「触れてはいけない」領域に達した感じだ。

昨今、異様なまでに「多様性」が謳われているが、現状は本来の多様性とは程遠いのではないかと思う。
②の大学中退の時に私が感じていた、「ふつう」の束の外側に漏れているという感覚。
いま「多様性」を掲げている人はきっとその孤独を知らないのだ。
だから、あくまでも「多様性」とは、『「ふつうでない人」を理解してあげましょう。優しくしてあげましょう。受け入れてあげましょう。』になってしまう。

つまり、今の私の状態とあまり変わらず、
各個人や教育内での偏見や思い込みをそのままに
「あからさまに態度に出さないようにしましょう」
「声に出して言うのはやめましょう」
とお触り禁止にしているだけなのである。

だから街の声も
「今はいろいろ厳しいからこんなこと言っちゃいけないんでしょう」「窮屈な世の中だねぇ」となる。
「ふつう」であるという傲慢な自負が、「ふつうでない人」を傷つける言葉を吐かせてしまう。

性別や年齢という属性はある。

だけど、人からの決めつけや自分の思い込みからすべて解放された時、それはそこまで問題になるだろうか。

問題は「女なら家事育児やるべき」「男なら黙って稼いでくるべき」「父親なら疲れてても車を運転するべき」「母親はどんなに文句を言われても子供を拒否しちゃいけない」といった、色々な縛りとそれを刷り込まれる恐ろしさだ。

この結論が書きたかったなら④だけ書けばいいのに、と思われたかもしれない。

だが①の中学生の私は、「わたしを束ねないで」という詩に出会って、A型にされていっていると違和感を覚えていたはずの私は、
当時、私の③の時と同じように「母親」としての役目に縛られていた母のことを、「父親」の責任を負った父のことを、何とも思っていなかった。「母親」なのになんでやってくれないんだろう、他の家のお母さんはやってくれてたのに、などと思ってすらいた。

そして②の時も私は大学を中退するまで「ふつう」と「ふつうでない人」を分けてしまう傲慢さに気づかず、少なからず自分の中の「ふつう」から外れた人を下に見ていた。
それに気づいた時、束ねない束ねられない世の中にするのは並大抵なことでないと思った。
その気づきのために、あえて分けて書く必要があると思った。

人は自分が守られる側である時、順調な時、自由な時、そうでない人のことをなかなか考えられない。
傷ついて、病んで、失って、初めて知ることはたくさんある。

もしもあなたが
世の中が属性による思い込みも重圧も決めつけもなく、周りから差別も受けず、自ら足枷もつけずに育ったら、
あなたは今のあなたでしたか?

私はちがった、と思う。だけど、それが当たり前の世の中で育ってしまったがゆえに、アイデンティティを蝕まれて、束ね続けられてきたがゆえに、なかったらどうなってたか、なんて正直想像もつかない。

「女だから可愛くしなきゃ」「A型って神経質なんだよ」「乙女座って繊細らしいよ」「末っ子は甘え上手なんだって」

そうやって色々な思い込みや言動に刷り込まされたり、反抗したりして、振り回されて生きてきてしまったから、今から出来ることは、今の自分を縛っているヒモを切って、今の自由を満喫すること。
誰かを束ねてしまうかもしれない、可能性を狭めてしまうかもしれないことを自分の口から言わないこと。

「男のくせにピンク好きなのかよ、気持ち悪い」
「女が女を好きなのかよ、変なの」
「お兄ちゃんなんだから我慢しなさい」
「俺の子なのに何でそんな出来ないんだよ」
「母親なのにそんな派手な服着るの?」
「その月齢で話せないの?大丈夫?」
「そんなの、ふつうじゃないよ」
そんな言葉たちが、ただ自分であることを否定してしまう。

もちろん、性別によって単純に体の造りが違うから、その部分まですべて自由にとはいかないけれど、
属性や立場を恨んでしまう理由は世間体や人の言動であることが多いと思う。

自分は自分。他人は他人。属性はただの属性であり、区別。
仲間意識を持つなとは言わない。強要をしないこと。他人を自分の軸で束ねない。自分で自分の自由を制限しない。

無意識で縛ってるものもあるから、なかなか難しいけど、一度しかない人生だから、悔いのないように人の言葉にコントロールされないように生きていきたい。

しかしまぁここまで色々考えさせられる詩に教科書で出会えるというのは、ありがたい経験である。

作者の新川和江さんはあまりに『わたしを束ねないで』が有名になりすぎてしまい、書く気力を失ってしまった事もあるらしいので、ある種「代表作」に縛られたときがあるとも言える。
真理をついた詩を書く人ですら、そうなのだから、なかなかどうして人生というものは難しい。

「完成感がないから、これまで続いてきたのかもしれません」 新川和江さん「わたしを束ねないで」



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