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『わたしを束ねないで』①

詩人の新川和江さんの『わたしを束ねないで』という詩。
教科書に載っていたその詩の表題でもある「わたしを束ねないで」というフレーズが、私の頭にはずっと残っていた。それを成長とともに反芻するうち、感じることや考える事柄が変わっていったのでそれについてここに書き記したい。

教科書に掲載があるとはいえ、全文を載せるのは抵抗があるので比喩の少ない部分を抜粋する。

わたしを名付けないで
娘という名 妻という名
重々しい母という名でしつらえた座に
坐すわりきりにさせないでください わたしは風
りんごの木と
泉のありかを知っている風

わたしを区切らないで
,コンマや.ピリオドいくつかの段落
そしておしまいに「さようなら」があったりする手紙のようには
こまめにけりをつけないでください わたしは終わりのない文章
川と同じに
はてしなく流れていく 拡ひろがっていく 一行の詩

新川和江『わたしを束ねないで』一部抜粋

①教科書で読んだ時期(中学3年)
当時の私はこの詩を、カテゴライズされる事を窮屈に感じている詩だ、と解釈した。
カテゴライズ、という言葉は知らなかったが、常々何かに「分類」されることを不思議に思っていた。

一番の不思議は血液型のことだった。
何型なのか、という質問は今より昔の方が頻繁にされていた気がする。時代もあるし、年齢もある。
小・中学生のころは特に多かった。
A型だ、と答えると「それっぽい」とか「えーO型だと思った」などとコメントをされる。
何型だろうと、展開はあまり変わらず、「らしい」か「らしくない」かを判断される。

この繰り返しで私は「A型」の人間にされていっている、感じがしていた。
このやりとりが人生で一度もなかったとしても、私は今の性格だったんだろうか、と。

赤ちゃんのころの血液型診断はあいまいらしく、中学生のころは「ずっとA型だと思ってたのに、実はB型だった」みたいな子がいたりしたが、個人的にはもうほとんど「A型」に「なって」しまっているのでは、と思ったりしていた。

星座についても同様で、血液型ほどは全員共通のイメージがあるわけではないが、詳しい子が「おとめ座って○○なんだよー」などと言ってくると少し「そうなのかもしれない」などと思ってしまう。

何かにつけ、「長男」らしい、「末っ子」らしくない、「男」らしい、「女」らしくないなどと
「分類」に沿ったイメージを自分や周りで発言されるたびに、
自分で意識的には聞き流しているつもりでも、受け入れているつもりがなくても、何なら「そうじゃない」と抵抗していても、
何かしら影響は受けているのだと思う。

今ほど言語化はできていなかったが、こうした周囲によって「何者か」にされている、という感覚はあった。
「A型」で「おとめ座」で「末っ子」だけど「長女」の「中学3年生」に。

だから、この詩を読んだときは納得感があった。

「分類」によって束ねられていることに抵抗し、
「自由」になろうとしているのだと。

しかし、私は「A型」にさせられている感こそ不思議に思っていたものの、それを「窮屈」だとは思っていなかった。
なので、この時点では「共感」までは至っていなかった。

次にこの詩を思いだすのは、社会人になった時だ。
この話は②で書いていこうと思う。

ちなみに、この話を書くにあたって
血液型と性格の相関関係について調べていたところ、
そのものズバリの記事を見つけて少し嬉しくなったことを添えておく。
現代では科学的に証拠はないとされているけど、あのころは皆が信じていた血液型占い。
○○型だけは、○○座だけは絶対合わない、と言い張っている子もいたが、今もそのまま信じているだろうか。

結果として、“○○型は△△という傾向がある”という認識と同時に、“私は○○型だから、△△のように振舞わないと「らしくない」と思われてしまう”というように、広く社会に流布されている情報に自分自身を合わせようとしてしまっている可能性が高いといわれています。
つまり、血液型で性格が決まるのではなく“決まっている血液型の特徴に合わせないといけないと考えてしまう”ということです。

血液型性格判断は正しい?


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