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苦痛本位制~「バンドをやるから就活をしない」問題~

「バンドをやるから就活をしない」問題


「バンドをやるから就活をしない」

友達のお子さんがそう言っていたらしい。

・20歳時点でトータル1万時間ぐらいすでにバンドをやっていたり
・意見がありすぎて週に何万字もブログを書いていたり
・顔がダミアーノだったり
・暇さえあればテレビに6時間ぐらいブチ切れ続けていて手がつけられなかったり

そういうことがあればもう別に「そうですね、もう表現をやったほうがいいと思います。頑張るしかない。練習や制作を行うしかない。」
という感想を私は持つけれど、彼はこれまでバンドや音楽やステージをやっていない。楽器は半年前に始めたらしい。

なぜそんなことが起こるのか。
私は「農家や、中間管理職や、水道局の人…などが、カッコイイ写真と共にインタビューされていないのがよくない」「アーティストを起用しているスポンサーサイド、メーカーの人やらなんやらが、カッコイイ写真と共にインタビューをされるべきなのではないか」という考えに着地した。共感の的として例示されている人物像の幅が狭いことを改善すれば、なんとかなるのではないかと。

「自分のやってきたこと」を信用できなくなってる限界状態の人に商品を買わせたい方が、アーティスト各位を磔にしてテキトーするからそういうことになる。分野に向いた「積み上げたもの」が存在しないのに、10年やってきた人なんかと並んで突然輝くわけないだろ」という気持ちを持っていたけれど、結論としては「そのへんにいる他人の中」にある光をきちんと見てください、「自分のすでに持っている力について過小評価しないでください」みたいな感じになっている。

「突然輝くことはできない、突然発光はできない」、これは「才能が無い」という話として受け止められる。それを伝えた結果、相手にとっての敵として見做されることはままある。「才能」の世間一般的な取り扱いは概ね狂っているから。自分はスーパーサイヤ人「かもしれない」という夢。「あなたは筋肉量があるから、サイヤ人とバトルしても5秒は持つかもしれないですね。サイヤ人のことよく知らないですけど」みたいな、筋肉量みたいな、「適性」の話にもならない。

人が「敵から批判されるということは、自分が特別な人間だからだ」と思いかねないぐらい切迫した流れを作ることはよろしくないし、何らかの呪文/方便を真に受けてしまっている状態の人に対して、面と向かって「敵」として振る舞うことのメリットって、ないんだよな。苦痛を根拠にさせてしまう運びになるのは、よくないと思うけど。


○苦痛と結果に因果関係はない


苦痛と結果に因果関係はない。ないのだが、「苦痛の結果として産まれたものは、「いい」ものに違いない」と誤認しやすい空気はある。

「就職をしない」ことを一種の「苦痛」として設定して行動した場合、実際のところどうであるかはさておき「人生を賭けている覚悟があるから報われる・報われるべき」という前提が発生してしまうのではないか。まだ、やっていないのに。人生は自意識問わずそれぞれにハードなのに。


高校生のとき、周りが“1週間徹夜したり学校をサボったりして作った画面(概算50~80時間)”が選ばれず、私が“2ヶ月朝昼放課後の毎日3~4時間で作った画面(概算120時間)”が選ばれてしまったことがある。

その件で数名に「なぜ」と号泣されたので、

「コツコツ時間をかけて、場にいる周りの人が出していないジャンルを出したからだよ。高校生の作るものは基本的にどんぐりの背比べだろうし、高校の先生はコツコツ描いているものを採用すると思った。私が描いているときにあなたたちはトランプをしていたよ。それでも通す価値があるなら通るだろうけど、みんな似たようなものを出しているから通らないよ。採用する人の好みにもよると思うけど」

そのように「なぜ」の解説をしたら村八分にされた。その人たちが提出直前まで他の人が出すものを見、「出されていないものを出す」などができれば30分で作ったものが通ったりすることもあるだろうし、審査員の好みによって別段時間や思考のかけられていないもの(そんなものは原則として存在しないけど…)が選ばれることもあるだろう。それはそれで「なぜ」ではない。できなかったからといって村八分にしないで欲しい。わたしは仲良くするか、当たり障りのない感じで接されたい。

受験に受かったときもイラストレーターで食べられるようになってからも言われた「なぜ」。そう思うなら、私は運がよく、人に恵まれているからではないだろうか。それ以上のことを話すと地獄の泥仕合、相手の価値否定フェスティバルになってしまって始末が最悪になる。

「なぜ」の人々が私より多く得ていると考えているもの、それは「苦痛」なのだろう。徹夜の苦しみ。「できていない」ことに起因する焦りと苦しみ。自分にはそれがあるのに、なぜそれを得ていないお前が報われているのか。そういった「なぜ」が発生しているのではないかと私は思う。私の受難についてわざわざ説明して納得していただいても、苦痛のインフレに加担することになるため本意ではない。


○苦痛のインフレ 苦痛本位制による価値交換


苦痛と結果に因果関係はないし、劣等や上等と苦痛にも因果関係はない。
これは「神などによる賞罰※と自分の生が連動している」と考えることで起こりうる苦痛のインフレを防ぐための考え方なので、「苦痛のインフレとかどうでもいい」「とにかく勝ちたい」みたいな人は参考にしないでください。

苦痛のインフレとは、

「苦痛がなければ価値を得られない」という「苦痛本位の価値交換制度」を皆が信じた結果として、より多くの苦痛を得なければ価値が得られないかのような「雰囲気」が醸成され、「この世の苦しみの総量が増える」現象のことです。

===================
きちんと苦痛を得ている他人や自分は報われるべき
苦痛が足りないから価値を得られていない
罰されるべき者が罰されているので、苦しみを得ている自分は特別な罪人である(特別な罪人ではない)
===================

こういう感じ。

「就活をしない」ということで得ると想定される「未体験の苦痛」をベットして「価値」を得にいくスタンスは、苦痛本位制に基づいた考え方ではないかと思います。「これだけのものを賭けたのだから報われるべき」というギャンブル。

「苦しみ」は価値として換金しやすいような雰囲気があるけれど、すごい勢いでインフレを起こす。同じ価値を交換しにいくためにより大きいと「見做される」苦痛が必要になる。

多くの若い人がスタースピーカーの声しか聞かない環境、「苦痛はあったがその結果としてよいものが産まれた」「人生を賭ける覚悟はあるのか、ないのか」のような話しか聞こえない場所にいるなら、真面目さで窒息しそうな一部の若者は、もうどうしたってそういう話にグラッとくることはあるのだろう。「バンドやるから就活しない」。本人の中では「覚悟」の表明、得たい価値に対して「妥当」に違いない取引としての「就活をしない」。人生のベット。

トップレベルで表現をやっている人の声は届きやすいが、切迫感を伝えるかどうかは別として、いわゆる“表現”とされていない仕事を行っている誰も彼も、覚悟や自覚はさておき、やることなすことに人生は「賭かってしまって」おり、不可避の苦痛が発生してもなお動き続けて価値創造している。

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