こまぎれの記〜「生きねば。」と「生きろ。」の狭間で
文章になる前の言葉が、私の頭の中でバタバタと駆け巡っている。それはまるで無邪気な幼子が障子に穴を空けたり、靴を脱ぎ散らかしたり、駄々をこねて泣き喚いている様にも似ている。抱きあげるとのけぞるようにぎゃーと自己主張したりなぞする。なんというエネルギーだろう。
しかし日々の糧のためには、現実の仕事も多少なりともこなす必要がある。私はこの悪戯っ子たちと目線を合わせ、ピンと張った和紙を蹴破ることを一緒に楽しむ時間がなかなか持てない。ほんとは君たちと共に渡り廊下をバタバタ駆けて、大人を困らせる悪知恵を巡らせ、空想の翼を思い切り広げたいのだけど。
そんな対応ばかりしていると、頭の中の弾けんばかりのエネルギーがみるみる弱まっていくのがわかる。それは私の気の持ちようともリンクしていて、私まで元気がなくなるのでどうしたものかと考えあぐねていたのだが、過去の私はきちんとその対策も準備していたようだ。書くことのハードルを下げる備忘のための雑記、「こまぎれの記」なるシリーズがあったのを思い出したので、久しぶりにタイトルにしてみた。
私の頭の中の悪童たちの遊び散らかした、まとまりきらない色々なエッセンス。
コロナがもたらした生活と自身の内面の変化は自覚しているつもりでいる。その中で良い変化だなあというか、なんだか懐かしい体験が、予期せぬ形で自分の中に戻ってきた、というものの一つが、オンライン家族誕生日会であった。
大家族における誕生日会は割と楽しいイベントで、山手線ゲーム(古今東西ともいう)や絵しりとり、などの様々なゲームを織り交ぜながら、歌を歌ったり、みんなから一言ずつメッセージをもらったり、1年の抱負を家族に宣言するなど、我が家独特の小さな祝祭が年に何度もあった。
9月は母と次女の誕生月だったので、月初にzoomで数時間、発散的に色々なことを話した。誰かが話をしているのに何の配慮もなく割り込んでこようとする自由な人たちとの安心できるコミュニティでの会話は、どこに話材が飛んでも構わないという前提に支えられて、それぞれの相互作用から転々と広がり、飛躍していく。劇場勤務時代のもと同僚たちとも数か月前にオンライン飲み会をしたが、なんだかその会話の流れと似ている、と思った。全然違う話をしているのに、「そういえば戻るけどさっきのあの話さ…」と誰もが気負いなく話しかける。それさえも手放しで迎えられる。私が安心できる人々との会話のその特性、その類似性に、はっとしたのだった。
オンライン誕生日会では、本当に様々な話題が上った。
十五少年漂流記、モモ、風の谷のナウシカ、未来少年コナン、年金、助成金、京町家、岡本太郎、お皿、認知特性、マルチタスク、生きづらさ、発達障害、愛の不時着、ソ連時代のレントゲンのレコード、窮地に陥った人間の判断力低下と竿竹屋。その他もろもろ。
「風の谷のナウシカ」が話題に上った時、長女が、原作のナウシカの最後の台詞「生きねば。」は、「もののけ姫」のキャッチコピー「生きろ。」と連動していると言った。継続したテーマをキャッチとして整えるために、「生きねば。」から「生きろ。」に変化した、と。
それを聴いて、後日こう思った。「生きねば。」は自発的な覚悟の発露のように思えるが、「生きろ。」は何かや誰かが語り掛ける偶発的な響き、ある種の引導のような気がする、と。
やや話は飛躍するが、学生時代に、事故物件に住んでいたことがある。
私自身、霊感なんてものは微塵にもなく、死者の世界を想像したところでしょうがあるまいと割り切るドライな自分もいたし、何かを盲信することへの頑なな抵抗感を抱いていた。いわゆるスピリチュアルなものを割と毛嫌いしていたように思う。畏れを知れ、と言われても、未熟な若さに敬虔さを受け入れる度量などなかった。
そんな私が、事故物件に引っ越して、割と早い段階だったと思うが、本当に不思議な体験をしたことがある。
ある日の深夜、浅い眠りに横たわる私の体の上に、突風のトンネルが通ったのを感じた。それはものすごく強い風で、窓に向かって通じていた。その風の動きに飲み込まれないように、と、なぜかとても不安で怖くて怯えていた。目を閉じているのにも関わらず、これは見てはならない、目を閉じねば、と思う。でもそれさえも上手くコントロールができない。二枚目の瞼が開いていることで、見てはならないものが見えてしまうような恐怖だったのかもしれない。風が鳴りやむと、なにかが私に乗った、と感じた。お腹のあたりになにか、やがて、少し遅れて、胸のあたりにもうひとつ別のなにか。だれか?
そしてその、私の胸に圧し掛かったなにかに、じっと顔を覗き込まれ、見つめられているのを感じた。開けられない目、動かない体。途中で、川に身体が流されるような感覚も覚えた。お前はまだそっち側、と覗かれていたのか。私が生き抜くに資する力を持っているかどうか、鋭く見定められていたのか。白い天井を見つめ、この状況、一番迷惑をかける人が少ないコンディションで、この世を去ることが可能なのではないか? という恐ろしい考えが浮かんだ夜を抱えた自分をも、見透かされたような気がした。
やがてなにかはいなくなり、川も風もなくなり、身体も軽くなり、二枚目の瞼も必要なくなり、翌朝を迎えた。どこまでも永い夜のような気がした。その部屋で不思議な体験をしたのは、後にも先にも、これ一度きりのことだった。いや、あれから10年以上、いまだに、そうした体験を再びしたことはない。
あの時、私はなにかに、「生きろ。」と言われたのではないか。都合のいい解釈だが、不思議とそう思える今があるのだった。
そしてそうした考えとリンクするように、この前ほんの気まぐれで読み返したノートに、こんな文章を見つけたのを思い出す。それは、14歳から16歳ころまで、自由気ままに自分の気持ちを書き綴っていたものだ。尖った筆跡が繊細な心で生きる先を切に追い求めているのが痛いほど伝わるようで、昔の自分を強く抱きしめてやりたいような気分になった。
”私の矮小な/この価値が/たとえばそれさえ失って/それでも生きなければならないとき/世界はどんなふうに回ってくれるのだろう
私の卑怯な/この勇気が/たとえばそれさえ必要になって/生きるほどに醜くなる悲しみに/世界はどんな雨を落としてくれるのだろう
私の無知な/この心が/たとえばそれさえ汚されてしまって/それでも知らないことばかりと嘆くとき/世界はどんな道を示してくれるのだろう
何もしてくれない世の中に/たとえばどんなに傷ついても/私はこの世界でしか生きられない”
「生きねば。」を自分なりの言葉で表現したのが15歳の時ならば、それから5年、何かが「生きろ。」と言った。それから10年以上、やっとそれを結びつけることができるようになった。
月が綺麗に見える秋になったせいなのだろうか。それとも私のこの頃の心境の変化なのだろうか。あるいは先日、元同僚の親友とこのことが話題に上り、「違うよ、ようやくだよ。むしろ、やっとちゃんと整理ができた気がする」と発言したせいだろうか。
何度か考えてきて、一度考えては寝かせて、それでもまだ十分ではないから自分の変化のタイミングで度々それは蘇り、その都度自分の考えを活字で述べようと繰り返してきたことが、再び頭の中と心の中に吹き込んでいた。
私は自分が書いた文章というものをあまり読み返すことがないのだが、ここのところ自分の内面の棚卸しをしなければならないような気がして、見ないようにしていた記事を読み返したりなどしていた。大昔、別のブログに書いていた非公開の文章も含めて。
自分が感じたことや見たもの、聴いたものは事実の一側面にしか過ぎないから、あれこれ言って、喜びさえも否定するような言説、一方をただ責め、切り取り歪めるだけの言葉に落としたくはなかったのだと思う。
「maiya、気づいてないの? あの人は頭のいいmaiyaのそばにいることで、自分も頭がいいと勘違いしたんだよ。努力してもいないのに。」
当時、ある人との別れを受け入れる作業を手伝ってくれた友人が、私に言った台詞である。当の本人は忘れているだろうけれど。私には衝撃だったので、忘れられないのだ。
多くの信頼している友人らが、疲れた私の代わりに怒りを露わにしてくれたので、私は、自らの憎悪に心身を焼くことなく、ここまで歩いてこられたのだと思う。実は、その人の親族にかけられた心ない浅慮な言葉と態度も私の拭い難い傷になっていたことを何年も経ってから密かに明かせば、「金属バットで殴り殺したくなる」というなかなか過激なコメントを返してくれた友人もいたと思い出す。
彼は、私が卒論で扱った哲学書を、「こういう本、面白そう」と電車の中で前書き部分のページを繰りながら言った。だが、実際に読みはしなかった。私自身も、この本が自分にとっての軸を形成している大切な思想なのだということも、家族や政治や演劇や哲学が、大きな興味関心事として自身の中にあるということも、それを誰かと共有したいという切望も、まあ、わかってもらえないだろうなと最初から諦めていたので、それ自体に大きな違和感はなかった。思考の時間は現実生活の時間とは少しずれるので、それを他人に求め期待すること自体がお門違いだと思った。夏休みに一切構わず選挙事務所に毎日通っていたら、その薄情ぶりに苦言を呈されたこともあった。そうした過去からのやり取りを思い返せば思い返すほど、心の外側三層くらいのレイヤーで接することが一番いい距離感なんだと思った。
まあそんな関係性だったから、遅かれ早かれあの結末を迎えてはいただろう。私自身が自分と向き合い成長を望めばこそ、成長の苦しみに耐えられない彼とはどんどんずれが生じ、それが最後には修復不可能な距離にまで広がって、幕引きさえ一緒に負ってはくれない彼に、私はただただ失望した。
ただ、大切な本の中にも言及があるように、人はひとりでは生きられないという前提に立ち、ではどのような共同体を築くのか、という命題に帰結するのであれば、私は私の共同体構築に真摯でありたいと願っていたので、それが水泡に帰したことが受け入れがたかったのだと思う。
政治とは他者との共生であり、そこには真なる自己理解と他者理解があって、その壁を行き来するための誠実な言葉があると思っていた。けれど、目の前の身近な現実のひとを大事にすらできないなら、全てが夢の衣で飾り立てたひ弱な虚妄に過ぎなかった。それは文字通り、私の生き方、私の中途半端な知性の、敗北であった。学んできたことも、知性も一体何になるというのか、何になったというのか、と悲観する私の、完全なる降伏であった。
わたしは一つの象徴的な出来事を通じて、自分の大切な沢山のものが傷つき、その癒し方もよく分からないで、ただ抱えて歩いていたのだな、とこの頃思った。
「おたがいに/なれるのは厭だな/親しさは/どんなに深くなってもいいけれど」
とは、私の敬愛する詩人茨木のり子の「なれる」の一文だが、本当にその通りだな、と身を持って共感する。
私は彼の不誠実さと弱さに慣れ、彼はきっと私がそばにいることそのものに慣れた。やがて、私が大切にしていたたくさんのものを、蔑ろにしていくことにも慣れた。そして私は、自分が大事にされていないということを自分で認めることがどうしてもできず、大事に扱われないことに慣れていった。
「一人で歩くことのできない人間は、だれかと一緒に歩くことができない。」と、彼は本当に最後、謝罪の意を込めたのだろう懺悔のように私に告げた。おそらくそれは正しくて、私自身、彼との最後の日を迎える際に記した文章には、「ふたりでいるつもりでいて、ひとりだった。」と書いていた。そして、生き方の変化を伴わないのであれば、それは懺悔にもならないのだ、と、今ならはっきり言うことができる。
生きるということは絶えず命がけで、容赦がなく、試され、投げ出され、そうして傷だらけになって、やっと少しだけ気付くことの繰り返しだ。生きるとは、小さな、あるいは大きな自己改革の痛みを負い続けていくことだ。
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