【過去記事】20161006 こまぎれの記~筆致の変化と恋愛における思考停止について

別のブログに書いていたものを一箇所にまとめるプロジェクト。その12。
文章になるまえのバラバラな言葉を拾うのはなかなか難しい。文章にならないなら書いてはならない、というハードルを自分の中で下げたくて、これを書いた気がする。「鈍いやつだけが幸せなんだ」とは、岡本太郎の言葉だったか。

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月に一度は更新したいと思っていたし、それを他人に公言していたのに、9月はこのブログを更新できませんでした。気にしてない人がほとんどだと思うけれど。


で、更新できなかったという事実を前に、習慣というものは一度の挫折でその目的意識を見失ってしまうのだなあと考えながら、それを持ち直すためのモチベーションを自分の中に問い質す時間にも、必然となったわけです。根がズボラなくせに、なんで自分にわざわざプライベートで、課題として文章を書くことを義務付けたんだろう?

振り返ってみると、このブログ自体は別に最近始めたものではありません。ただ、ここ最近、私はいろんなことを覚えておけなくなってきたなあと感じたことが、大きいように思う。自分の非や、苦しみや、考えたこと、考えたけれどまとめることのできないものを、抱えるキャパシティが、単純になくなってきたと、ある日静かに自分が実感し始めた。それが一つの直接的なきっかけだったと思う。
というわけで、これの最大の目的は備忘録であると開き直り、今日はそれを記します。以下は私の断片的な思考の記録。これらはそのうち、できることなら、もう少しきちんとまとめたいと思っている。

ところでタイトルの由来は、某主婦の某料理ブログにインスピレーションを受けてつけました。これを読んでいると、こまぎれをまとめて焼くことで塊肉のジューシーさや豪華さを味わうことが出来るという内容がしばしば見受けられますが、そういう「節約」に自分はまったく興味がないのだなあと自覚したことは、最近の小さな発見です。あるいは、「必要としていない」ものには人間だれしも「興味がわかない」のだ、ということに改めて気付いたと言ってもいいと思います。映画でも舞台でも何でもいいけれど、作品を見ていて、自分の中で共感や類似や想像の範囲に入らないと、作品それ自体が立ち現われてこないのだよね、と思いました。彼女のこまぎれレシピは、おそらく家庭を持つ人のためのもので、料理の観点からは共感できないけれど、私は、私のために、こまぎれをぎゅっと固めるように、これを書く。その時の気持ちのように「ほんもの」にはなれなくても、それに少しでも近付けたくて、忘れないために、書く。

「相手を変えることはできない、自分を変えることもできない。結論、人は変わらない」と、かつて私が発言したことを、予期せぬ他人が覚えていて、余計印象的な言葉に自分の中でもなってしまった。人は変わらない、今でもそう思っている。けれど、昔からつけ、記録をし続けているノートの私の字は、昔と今のそれとで明らかに違う。今の自分の字は、かつてに比べ時間に急いでいる様にも見えたし、「真面目」な時間から解き放たれたようにも思えた。そして、雑な自分の今の字を眺めていて思い出したのが、「文字の下手な人というのは、手が思考に追いつかないかららしい」というある人からの言葉だった。頭の中を駆け巡っていく言葉と、現実に表せる言葉のその距離。時系列で示された自分の字が異なるように、私も、もしかしたら本当は少しずつ少しずつ変わっているのかもしれない。だけど、言葉の距離それ自体はおそらく、どんな自分にもどんな時代にも、どんな人にも、真実なんだろう。言葉の距離が埋められないなら、人と人がすれ違うことも、致し方あるまい。すれ違わないための努力を、どこまで続けていくことができるのか。それはやはりわからない。

そして関連して思い出したのが、最近の自分の発言。懐かしい友人らとざっくばらんに恋愛話をする中で、私はこう言っていた。私が言葉を紡がなくて済む、考えなくて済む唯一のものが恋愛なのだ、と。恋愛は思考停止。本能に言葉はいらない。本能は暴力でもあり、暴力だけが言葉を発しない。考えないで、目の前の人を信じること。目の前の人をただ信じて、そして目をつむれ。まるで宗教だ。目覚めてしまったとき、この世に神などいないことに気付いて世界はがらりと変わる。だから、目覚めたくないのだ。考えたくない。疑問に思えば、それがあふれてしまう。これは逆説的で、考えるということ、つまり思考・言葉が人を不幸にするのだ、ということの一つの証明でもあるように思う。言葉で表現してはならない、気づいてはならない。考えてはならない、幸せになりたいなら。幸せになりたくないと思う凡人がこの世にいたら、教えておくれ。凡人はどうしても幸せを夢見るものだと、私は思う。私とて例外ではなく、思考停止でもいい、それで自分の幸せを実感できるなら、と思っていた。でも今はそれももう言えない。


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