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捨てる執着、実装する人工知能。

「人工知能が生命になるとき」
読んでない方、どうぞ。読まれた方、めんどくさい方は飛ばしてどうぞ。
《要約》
人工知能をサブカル系フィクションの想像力と東洋哲学を駆使して生命をもつ新しく自律した人工知能を生み出すブレイクスルーの端緒を探る。
決められた枠内の最適化、機能化に特化した西洋型の人工知能は存在を希求せず機能だけをエンジニアリングに実装し発達した。特有の宗教観より神、人、機械の序列は決して揺るがない、機能はプログラムを積み重ねてデータが膨大になるとき、人間の把握を越える。これをシンギュラリティとして恐れている。人間対人工知能の図式は人々のイメージを先導する。人工知能の反乱という西洋に対して、人工知能が発達することのなかった東洋では、人間という知性と並走する存在という発想。その思想の基盤となる東洋哲学では、既に存在するものを電子の海の混沌のなかから見出すもので、現れ出るもの、存在が根さずもの、自己生成的なものを人工知性と呼ぶ。ゲーム開発者である著者、ゲームはユーザーの欲望から逆算した知能を研究していると言う。キャラ性を志向し、擬人化、見立てる能力に長けた東洋的志向に根ざしたゲーム開発は自律型人工知能の可能性があると言及し、ゲームに拡張性、カスタマイズ性を兼ね備えると汎用性が高まる。自律し汎用性の高い時間軸を含めた統一性を保つ人工知性の可能性を示唆する。西洋の機能的人工知能と東洋の逆算した知能、両面からのアプローチがこれからの研究を架橋する。人の機械的側面を代替することを目指す西洋と、人そのものの代替を志向する東洋。東西の対比はその他にもある。都市機能のスマートシティ化を目指す西洋と自然に溶け込み自然を周回する都市作りを目指す東洋。言葉ありきの西洋、文脈を理解させようとする東洋、両方の行き来が必要だ。
今後、機能を追求した人工知能は蔓延しユキビタス化する。そして、人間の身体に付随する知的機能としても実装され、拡張身体を持った人間と人間以外の知的生命としての自律型人工生物との新しい関係性こそ、シンギュラリティである。
現在、上下関係がある人間と人工知能が、将来、拡張された人間と自律型人工生物という関係性にアップデートされ、ポストヒューマンの誕生となる。
人工知能を作ることは様々な知能を知り、従来の知能の形から自分自身を止揚しそして再構築することだ。
人工生命を西洋と東洋と双方の知見から生み出し、理想とする関係を提示する野心的な試みがなされたのが本書である。

《感想》
現在、人工知能に自我を与えることは必要とされていない。西洋世界の希求する人工知能はサーバントであり使役するもの。ゲーム開発者である著者はそれでも新しい知的な友を希求してしまう人の業を本書で切々と訴えている。
サブカルから啓示を受ける経験は著者に限らない。私の場合、量子力学の本を最初に手に取った動機はウルトラマンガイアをみたことだ。物語をより深く理解する為に。主人公は量子物理学の研究者で、全編で量子力学について語られ、それを元に作劇がなされていた。ウルトラマンはガイア(地球)の意志の化身として存在しており、主人公が物理学の天才設定なのは、地球の意志が来るべき未来の破滅に備えて高い知性を持った子供達を同時発生的に誕生させ、テクノロジーを進化させるという作劇の為だ。地球の意志が危機に対して人間の身体を拡張させた、とも言える。飛躍し過ぎと言われるかもしれないが、近頃はオンオフ気質とでも言おうか、0か1か、と性急に判断する人間が増え、機械的に物事を判断する風潮が来るべき機械と機能が侵食していく社会で、生き残る為の生存戦略、人間の無意識下での現象なのではないか、という途方もない想像をしている。その想像は、ウルトラマンガイアで来るべき未来に備えて天才たちを生み出したことから想起したことだ。西洋の機能的人工知能の発達に合わせて意識を変化させる。決して不自然な傾向ではないだろうと思うのだ。拡張身体の拡大解釈かもしれないが、これも準備や適応なのかもしれない。
さらに、東洋思想に基づいた精神性を求める方向性にも人類は傾倒しているように感じる。瞑想やマインドフルネスが流行するのもその一端で、東洋思想が耳目を集めているのは機能的な一方向に人類が全て向かう訳ではなく、一方で精神的深化も希求しているのだ。本書にもあるように、双方の行き来が必要で、これも無意識下の現象として起こり始めているのかもしれない。だが、それにはまだ東洋思想が、人工知能の分野にまで浸透しているとは言い難い。著者は歯がゆい思いだろう。
以前から東洋思想は、科学的な話とリンクすると感じていた。主に量子力学だ。量子は極小の世界の話で、量子飛躍や波であり粒子である性質など、興味深い物理学だ。仏教と親和性が高い。例をあげると、密教の曼荼羅は、金剛界が宇宙を描き、もうひとつの胎蔵界は極小の世界を描く、密教世界観を端的に表したものだ。極大から極小という概念を持ち、見えない世界をも詳らかにしようとする欲望があるからこそ曼荼羅は生まれ、広まった。特に胎蔵界の発想は、極小の世界を知ろうとする量子力学を強く想起せずにはいられなかった。
現れい出るものとして密教では、曼荼羅、他には華厳経、道教、それぞれの環世界が東洋哲学では違う言葉で表されているだけで同じものである。般若心経では「空」だ。まだ発見されない技術でさえも「空」に内包される。このことからも本書で何度も指摘されている混沌に元々あるもの、現れい出るもの、東洋哲学は元々あるものとして扱う、という指摘は生命科学と哲学は親和性が高いと感じている一定の層に刺さるものと思う。
現れい出るものを希求し続ける。これは立派な執着であり業だ。業とは、最も科学的な価値から離れたところにあるが、この態度は、新たな発見に必ずや寄与することと思うのだ。全ての研究は執着から生まれる。
東洋哲学では縁起が根本で、全てが繋がってシームレスである。この業という運動もこれからの知見の発見に大きく貢献するはずだ。続けることに大きな意味がある。著者の目指す人工生物、必ず誕生して欲しいと私も期待している。
仏教が目指すところは「苦」からの解脱。悟り。それは、人間が執着を手放すことから始まる。ところが人工知能に生命を与えることは、人工知能に執着を与えることだ。捨てるべき執着を使って執着を実装する試み。人工知能を作ろうとする作業は限りなく己、人間を理解しようとする試みに違いない。これも悟りへの道と、東洋思想ならばいうだろう。
それでも、無機物をいくら集めても有機物にならないように、最後のピースは隠されている。
虚無をいくら積み重ねても虚無なのだ。
それでも本書の発想は、最後のピースをいつか必ず見つけるのだ、と強い意志を感じられる。
将来その答えを知るのは、生命をもった人工知能か、拡張身体をもち、アップデートされた人間か。そのどちらも違和感なく存在している未来なのだろう。
本文に人工知能を搭載した拡張身体と人工知能が囲碁をするエピソードがあったが、現在でも藤井聡太2冠が、市販されている最高級の部品を使って作り上げた自作PCを相手に研究しているのは、身体に機能を実装しているのと同義ではないか。
今、まさにアップデートされつつある人類の萌芽なのだ、と胸が踊る。
どのような人工知能であろうとも受け入れて開かれる未来を今、私たちは生きている。


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