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価値を見いだせるのに必要な時間

私の血はドロドロしている。
健康診断の血液の欄にはA判定どころかEとかCとか。
さすがにマズい。
ウォーキングをはじめた。でそろそろ6年。
そして参加しているオンラインサロンPLANETSCLUBの影響で走ってみようと走り出したのが1年と少し前だ。
正直気は進まなかった。マラソン嫌いだしマラソン番組だってすぐチャンネル変えてしまう。
それでもクラブで楽しそうに走る様子が羨ましかったのもありはじめてみる気になった。
1番の決定打だったのが走る人が身近にいたからだ。彼女はとてもしなやかな身体で引き締まっていた。
「いいなぁこういう隙のない身体になりたいなぁ」と憧れた。
ヨガもやっているけど代わり映えしないな、と走ることを決意した。ウォーキングで減る体重にも限界が来てた。
ウォーキングをはじめた当初、暑いのやだし紫外線は敵だし夜に歩こうと主に深夜帯10時から12時にテクテク歩いた。
私の家は山頂にあり上り坂の道しか出入り出来ない。ご近所をぐるっと1周してまた同じ坂に戻る。約10周して30分を毎日。走ろうと決めてから約1年かけて緩やかな坂をダッシュ、後は歩くを続けた。この歳で急に走って脚を痛めるなんてよくある話。一応気をつけたつもりだ。
そして去年の春、満を持して走り始めた。
半周走って半周歩く調子が良ければ何周か走る。
そのうち地元ではランナーが集まってるので有名な湖畔のランニングコースに出没した。その頃には走るのにも慣れてきた。
走るときに頭に浮かぶ情景というかシーンというか思い浮かぶ人がいる。
吉田秋生の名作カルフォルニア物語。
主人公ヒースは優秀な長距離走の選手。家庭での葛藤が原因でジャンキーに。やがて高校中退しニューヨークに流れ仲間たちと出会う。アメリカン・ニューシネマに影響された唯一無二の漫画だ。
小学生であった自分にはカリフォルニアもニューヨークもヒースや仲間たちのジョークやセックスを巡るやり取りも大人過ぎた。そんな手の届かない大人であるヒースが走る時の描写があまりにも印象的だった。
ランナーズハイなんて知る由もない小学生にはあんなに苦しいランニングが気持ちがいいとは?何もかもを忘れて没頭できるってどういうことだろう。
ただ走るのが好き、というヒースが理解出来なかった。走る人とは私にとってオリンピック選手ではなくカリフォルニア物語のヒースだった。
没頭するヒースと違い私といえば走っていると考え事で頭の中が占められてしまう。煩雑な仕事のことや人間関係のモヤモヤで頭がいっぱいになる。
あれこれ悩むのだが走っているうちに案外これがスッキリしてしまう。
疲労感と達成感はランニングが圧倒的だけどヨガはスッキリと身体に心地良さが纏われる感じ。ランニングをしてヨガをするのがルーティンになった。どちらも澱のように沈澱していく毎日の『疲れ』を取り去る作業だ。
これが走ることの動機なのかもしれない。
すっかり走るのが好きになっていた。
毎日欠かさず走るようになり、息子、娘の家を訪れる時はその地でも走った。日課になってしまうと空くのが嫌なのだ。
圧倒的な大人で深い悲しみを背負っていたヒース。カリフォルニア物語を久しぶりに読み返してみると「あれ?」となった。
あれほどトラウマを抱えひとり悲しみに耐えていると思っていたヒースの抱えるものが案外思春期のありふれた悩みだったからだ。それより相棒のイーヴの方が酷い虐待をうけ辛い半生だった。イーヴと出会い彼との日々の方がヒースにとって自由と痛みの積み重ねで苦悩と煩悶の繰り返しであったのに小学生の私には多分家庭でのトラウマの方が身近なので印象深かったのだろう。私は人生で何が辛いのかよく分かっていなかった。
経験と年齢を重ねた今カリフォルニア物語の印象は変わった。
あんなに嫌だった走ることがこんなにも毎日欠かせないものに変わったように。
ヒースはイーヴを呆気ない死で失う。私は慣れ親しんだキャラが死ぬ、という経験をこの時イーヴではじめて味わった。しかもその死は呆れるほどつまらない死だった。物語上で感情移入した存在が意味の無い死を(その意味の無い死こそ必要だったのだが)迎えることに衝撃を受けた。人は意味無く死ぬのだ。
ヒースは喪失からヤケになり殺人未遂を犯すけれど呆れるほど呆気ないイーヴの死の真相を知り死を受け入れた。時間が彼を癒し立ち直りニューヨークから離れ旅立っていく。
しかし彼はどこにいようと走ることで街を自分を知るのだろう。
私も知らない街を走るようになった。
走ることには案外時間が必要なのだ。
ちなみにあれから私の血は相変わらずドロドロしているし体も締まってない。
時間はここにも必要なのだ。

#PLANETSCLUB #ランニング #ヨガ #カリフォルニア物語 #吉田秋生 #漫画

ちょっと寂しいみんなに😢