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短編小説|土曜日のパン・オ・ショコラ

この作品は、生活に寄り添った物語をとどける文芸誌『文活』2022年2月号に寄稿されています。定期購読マガジンをご購読いただくと、この作品を含め、文活のすべての小説を全文お読みいただけます。


 その街に、クロワッサンの美味しいパン屋はあるか。

 私が部屋を探すときに、これだけは外せない条件だ。
 平日は冷凍ご飯と味噌汁、前日の夕飯の残りか目玉焼き。週末はクロワッサンとカフェオレ。それが私の朝食ルーティンである。

 そして今日は土曜日。私の目の前には駅前の「ブーランジェリーかもめ」のクロワッサン、200円。近年のパン業界の高級志向とは相反するお手頃価格ながら、表面のパリパリ食感、バターの香りが鼻に抜ける本格派。前回のボーナスでふんぱつして購入したバルミューダのトースターでリベイク済み。それと淹れたてのカフェオレ。
「……」
 分かりにくいかもしれないが、私は今とても満足している。昨日、上司の多田さんが面倒な案件の見積もりを定時まであと1時間を切った最悪のタイミングで依頼してきたことも忘れている。
 土曜日の朝の、このささやかな幸福によって社会は支えられていると言っても過言ではない。クロワッサンは偉い。ありがとうクロワッサン。今週もお疲れさま。来週もほどほどによろしくどうぞ。

 ◆

 私の穏やかな朝食ルーティンに激震が走ったのはある金曜日の夜のことだ。
 定時ダッシュ作戦を敢行し「かもめ」にたどり着いた私のお目当ては、もちろん翌日の朝食のクロワッサン。しかし、「かもめ」のガラス扉を開いた瞬間、誘惑の一撃を食らった。真冬の朝の羽毛布団みたいに、体じゅうに絡み付くチョコレートのまろやかな香り。

『甘~い誘惑はこの時期だけのお楽しみ! パン・オ・ショコラ ¥230』

 パン・オ・ショコラ。四角い形のクロワッサン生地の中にチョコレートが入っているパンのこと。フランスでは朝食やおやつの定番として親しまれているが、ここ「かもめ」ではどうやら寒い時期だけの限定商品らしい。きっと人気商品なのだろう。かごにはひとつしか残っていない。
 私はパン・オ・ショコラと過ごす甘やかな休日の朝を想像しながら、入り口のアルコールスプレーを手に擦り込んでトレーとトングを手に取った。

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4,333字
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