見出し画像

「私」は「あなた」だったかもしれない

「ほら、あの人さ、たまに『闇落ち』するから」

たしかに。だよねぇ。

「そう。いつものことだから大丈夫だよ」

***

あぁ、五月蝿い。

納期が迫る中、人の少ないオフィスで残業していたら隣の島から聞こえてきた会話とからかうような口調に苛立った。「闇落ち」と言っているのはつまり、メンタルの不調のことである。

私に向けられた言葉でないことは分かっている。隣の島の席の、時折心身の調子を崩しながらも仕事をこなしている同僚のことだ。そしてその本人は他の拠点に常駐しているから今はここにいない。

同じチームのメンバーが先ほどのセリフを言っていたら私は窘めたかもしれない。しかし、大した関わりもない隣のチームの先輩たちの言葉に対してそうする気は起きなかった。

何も分からないくせに。違う。分かろうとしないくせに。

私自身も昨年、仕事のストレスを引き金に適応障害を経験した。復帰してからも体調不良に悩まされたから、その「闇落ち」というのも決して他人事ではない。たまたまその日耳にした言葉は同僚に向けられたものだったけれど、似たようなことはきっと私に対しても言われていたのかもしれない。

メンタルの不調は誰にでも起きうることだ。さまざまなメディアが取り上げるようになって久しいし、「うつ病は心の風邪」というような言葉も一般に知られている。しかし、実際に経験したことのない人はどうも「私は違うから」とか「あの人は弱い」とか思っていることが多いらしい。

「私」は「あなた」だったかもしれない

世間は自分以外やふつうではないことに厳しい。精神疾患や何らかの身体的障害を抱える人、ひとり親家庭、セクシャルマイノリティ、ひきこもり、貧困。「私」は「あなた」だったかもしれないのに。たまたま「私」だっただけなのに。

何でもかんでも自分ごととして括る必要はないだろう。そんなことをしていたら抱える荷物が増えすぎてしまう。でもどうしてあなたの隣にいる人に起こった出来事を一瞬でも「私があなただったら」と考えられないのだろう。なぜ人間の持つ想像力をはたらかせて「あなた」のことを分かろうとしないのだろう。

「あなた」は「私」だったかもしれない

なんで。どうして。そうした苛立ちが募る中、反対に私が誰かの痛みを笑う側かもしれないことに背筋が凍る。

人間が想像することを放棄したら、世界の分断はもっと進む。ここではたらかせるべき想像力とは「正しい知識を持って他者を理解しようとすること」であって、「共感」を強要することではない。誰もが生きやすい社会を目指すなら、私たちは想像するという努力を怠ってはならない。その怠慢はいずれ誰かの居場所を奪うことになる。

「私」は「あなた」だったかもしれない。隣にいて泣いているかもしれない「あなた」のことを想像する。きっと全部は分からないと思う。それでも私は分かろうと努力する人でありたい。

もしよかったら「スキ」をぽちっとしていただけると励みになります(アカウントをお持ちでなくても押せます)。 いただいたサポートは他の方へのサポート、もしくはちょっと頑張りたいときのおやつ代にさせていただきます。