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「子連れ様」バッシングは妥当である
本日も闇のnoterこと白饅頭尊師が闇を射出していた。
驚くべきことだが、自分が日常生活上で「迷惑な親子連れ」を見かけたとき、それをこっそりと撮影してSNSにシェアし、それをフォロワー同士で慰め合ったり怒りを共鳴させたりすることを旨とする界隈がインターネット上には存在している。それもかなりの規模でだ。
かれらは共通して、自身がアップする写真に収められた親子連れのことを「子連れ様」と揶揄的に呼んでいることから、ここでは便宜上「子連れ様界隈」と呼ぶことにする。具体的にどのような人びとであるのかをここで引用してしまうのは、繰り返しになるが盗撮画像の二次的拡散になってしまうため避けるが「子連れ様」と入力して検索すればその意味はわかるだろう。
白饅頭氏の記事では、「子連れ様界隈」の一例として「迷惑行為をしていない親子連れの様子を盗撮して『子連れ様』と呼び叩いている」ツイートを挙げているので、記事へのコメントやシェアコメントは「子連れ様界隈」へのバッシングが大半となっている。
確かに、別に誰にも迷惑をかけていないのに、盗撮写真を使って他人を非倫理的存在だと晒し上げる行為は、それこそが非倫理的行動である。しかし、親子連れを「子連れ様」と呼ぶ人々は、果たしてそのような非倫理的かつ的外れなバッシングを行う者ばかりなのだろうか?「子連れ様」バッシングは、妥当でないと言い切れるのだろうか?
この記事では、「『子連れ様』バッシングは、妥当性のある行為である」という立場で、「子連れ様」をめぐる議論について意見を書いていく。
「子連れ様」バッシングは的外れなものばかりなのか?
「子連れ様」バッシングは、白饅頭氏の記事にあるような的外れなものばかりなのだろうか?
答えは否である。
https://t.co/KvLPXpeU90
— 惨型糊🏴☠️08il2G/IzA (@The_MuRaMaSa) January 12, 2023
今時の #子連れ様 ガキをダシにすれば特権階級か何かと勘違いしてるからネ。
必要なのは「オマエの繁殖はオマエの勝手」と言える社会。
#ホームセンター従業員の叫び
— 虎吹小雪ᗢᘏᓗ੯‧̀͡u🐾 (@R4YfCyIr5ghVaa3) January 6, 2023
本日の子連れ様
台車に乗せた商品に幼児2人を乗せた(と言うか座ってた)レジに来た
「台車は危ないのでお子さんは乗せないで下さい」
と当たり前の注意したら、案の定
「ほらお店の人に怒られるから」
人のせいにするなボケ💢
親なんだからお前らが注意しろ
スーパーの売り場の陳列棚の全てを触って歩く4歳程度の兄妹がいてケーキもバンバン叩いてまわってて母親は離れたとこから「やめなさーい」と小さい声。私の子は障害児だけどそんな事1回もさせた(した)ことない。
— 薄荷@プロフ読めとあれほど (@Russiancookie13) January 13, 2023
そんな野放しだから子連れ様界隈に憎まれるんだよなぁ。 https://t.co/J5GkgthEcp
○千円以上購入してくれたら粗品プレゼントをやっていたら
— とある店の店員 (@genkai__chan715) January 5, 2023
客「うち子ども2人も連れて買い物来てんのに1個しかくれないわけ?」
とクレーム入れる子連れ様。
みんな大体、家族連れで買い物きてるし新年1発目から恥ずかしくないのかね。すんごい偉そうだったわ
まあ、スーパーとかモールで子供をちゃんと見ておけってのは買い物しながらだと不可能に近いけど…。
— 🦋怠惰ノ魔女🦋 (@R79pec0uBDteh6K) January 13, 2023
店内放送で何回も注意を促すのだって無法地帯になってるからだし。
それを、『子連れはお断りなんだ!』と発狂してTwitterに呟いたりするから『これだから子連れ様は…。』ってなるんだよ?
優先優先いうててワロタ。
— 🐱ケーショ店員のさら丸🐶 (@sarasara_mobile) January 7, 2023
そんなに「優先」してほしいなら並んでる人全員に一人一人に「私は子連れなので優先してください」って声かければよかったのに。
関係ないけどケーショでも「うち子供いるから待つと困るんだけど?」って言うてくる子連れ様いるよね。
これだから子連れ様嫌い… https://t.co/r2HCChinvv
ファストフード店の口コミなんだけど店員さんの対応の何が悪いの…?まさか、店外まで持って来いと?!
— green pepper (@pmannowagiri) June 22, 2019
席まで持ってきて欲しいのならなぜファストフードに来たの?笑
こんなだから子連れ様って言われるんだよ。お前の頭が残念だよ。 pic.twitter.com/P5DpYvhpfP
これ見てゾッとするの私だけ?
— すーぱーめめ子 (@SUPER_MEMESAN) July 6, 2020
子育てが大変、お金がかかる、って産む前に分からなかったんだろうか?生きていくお金も無くて人にたかるくらいなら産まなきゃいいのに。子どもの有無に関係なく苦労してる人なんて沢山いるわ。
「子連れ様」の思考を垣間見ました。 pic.twitter.com/fexnKaYhxw
自分の子供の汚物の後始末もできないのかよ。
— お客様は何様ですか? (@RCPWklnDxlRYmgY) August 2, 2018
使用済みのオムツ放置して、そんな汚いもの他人に片付けさせて、恥ずかしいと思わないの?
脳ミソ腐ってるの?
世の中が子連れに冷たいとか言ってる子連れ様、こんな事してるから優しくしてもらえないんだよ。
そんなだから嫌われるんだよ。 pic.twitter.com/paegQRgXdO
親子連れの迷惑行為、そして「子連れ様」という言葉を使う人々の、親子連れや子持ちに対する妥当性のある非難は、2、3分検索しただけでもこれだけヒットする。盗撮などの非倫理的な行為をしている訳でもない。
この「子連れ様」バッシングが、不当なものと断言できるだろうか?
「お互い様」という大嘘
「困ったときはお互い様」という言葉を使って、親子連れの迷惑を擁護する見方がある。
親子連れが基本的には周囲に迷惑をかけるものだ、ということは、その善悪を脇におけば論をまたないだろう。幼い子供はマナーを理解できないし、騒音をはじめとした周囲への迷惑を意に介さない。それを躾でどうにかすることは、確実ではない。
だが、かといって、それを「困ったときはお互い様」という言葉で擁護するのは、今の時代には無理があるだろう。
「皆婚時代」と呼ばれるほど、結婚や子作りが誰しもにとって現実的な未来であった時代なら、「自分も幼子を育てる立場になれば、同じような状況に陥るから」と「お互い様」精神を発揮して親子連れの迷惑を許容することができる者は多かった。
しかし、自由恋愛社会では、「皆婚」は成り立たないし、「お互い様」精神を発揮する前提が成り立たない。
非モテに代表される将来的にも非婚となることがほぼ確約された者にとって、子育ては「自分もこれから経験すること」ではない。ゆえに、「お互い様」精神を発揮しようがないのだ。
それどころか、現代において子供を作ることができる人間は、ヒエラルキー上位の強者であり、非モテはそういったヒエラルキー上位者から「いい年して恋愛経験がなかったり結婚していない人間は人間性に問題がある」とされ、いじめや搾取の対象となるヒエラルキー下位の被差別者なのだ。
また、この時代において「結婚していること」「子どもを連れていること」といったステータスは、それ自体が価値中立的なものではなくなり、ある種の「強者性/特権性」のシグナリングとしての性質を強めるようになっていることも無視できない。
ようするに、「結婚している/子どもがいる」という状態は、カネを持っているとか、社会的に地位があるとか、容姿が一定以上にすぐれているとか、なんらかの資本力にすぐれた「勝ち組」だけにゆるされた娯楽的活動の象徴的存在としてみなされつつあるということだ。「子連れ様界隈」が、文字どおり親子連れをわざわざ“様”づけで大仰に呼び、それと対比するように自分たちのことを「横暴で無神経な特権階級に虐げられている弱者」と位置づけていることと無関係ではないだろう。
「子ども連れ」を市民社会における相対的な“勝ち組”のシンボルと見なすこと――これは必ずしも実体と乖離した印象論というわけではない。統計的にも一致しているのだ。ひと昔前にはたしかに「貧乏人の方が子だくさん」といったイメージがあったし実体としてもそのとおりだったが、しかし現在ではそれはもう当てはまらない。「富裕層の方がより多くの子どもがいる」状況になりつつあるのだ。
そもそも、「困ったときはお互い様」という言葉は、迷惑を許容してもらう側が自己弁護のために使うべき言葉ではない。赦してもらう側が偉そうに自己弁護するなどおこがましいにも程があるではないか。そんなことをいけしゃあしゃあと吐けるのは、自分がヒエラルキー上位の「尊重されるべき存在」であるという驕りがあってこそだ。
・困った時はお互い様
— sis_sis (@sis_sis) October 16, 2019
・子供がやったことです
・お客様は神様
これは迷惑を掛けられた側ではなく、掛けた側が言うことの多いセリフです。
「罪を憎んで人を憎まず」は被害者側が言うものであって加害者側が言っていいものではない。「お客様は神様」は店側が、「子供のしたことだから」は子供に迷惑をかけられた側が、「うるせーハゲ」はハゲてる側が、「お互い様だから」は助ける側がそれぞれ口にすべき言葉であるのと同じように。
— マルキン (@ma_ru_kin) November 16, 2019
お互い様、ってのは手を差し伸べられる側が言う言葉じゃないのよ。そこを勘違いする人がいるから妊婦様、子連れ様なんて言葉が生まれるんでしょ。他人の親切に胡座かくもんじゃない。
— こおもてちゃん (@sazae_tabetai) May 15, 2022
新幹線で子連れ様の隣になった人が小声で「ハズレだ」と言うくらい、だいぶ優しいし、かわいいもんだと思う。世の子持ち様はその小声よりも遥かにでかい声で「あのおじさんに怒られるから静かにしようね~」などと不愉快極まりない下劣な会話を周りにわざわざ聞かせているんだから「お互い様」かもよ?
— けっきょくこうなる (@KK_kounaru) October 26, 2022
「子連れ様」に自浄作用はあるのか?
結論からいえば、ない。
「子連れ様 (a.k.a. 親子連れ)」の迷惑行為を、同じ親子連れが注意する、といった事例は寡聞にして聞いたことがない。それどころか、先述の「困ったときはお互い様」や、「子供は可愛いからいいじゃないか」というかわいそうランキング丸出しの理由を持ち出して擁護しようとする意見ばかりを見る。つまり、「子連れ様」には自浄作用がないのだ。
なぜなら、「子連れ様」は自由恋愛社会の勝者であり、自分たちの迷惑行為については親子連れ同士なら「困ったときはお互い様」や「子供のかわいそうランキングの高さ」を持ち出し、子無しには「敗者風情が勝者様に意見をするな」と跳ねのけることで社会的には赦されてしまうからだ。
そんな恥知らずな態度を貫いてきたからこそ、実際に周囲に迷惑をかけているかどうかを問わず、親子連れであるというだけで「子連れ様」と白い目で見られるほどの状況になっているわけだが。
「そんなこと言っているから子無しなのだ」という鶏卵のすり替え
見境なく「子連れ様」を叩く子無しに対し、「そんな非倫理的なことをするような人間性だから子無しになるんだろう」と揶揄する者もいる。
身もふたもないことを言ってしまえばそんな不寛容な連中が、彼ら自身の定義した勝ち組のレールに乗れないのも自己責任なのだよね。
— かーすけ (@karsuke3) January 13, 2023
そんなことばっかりやってるから、誰かと仲良くなることもできないんだから。
白饅頭日誌:1月13日「子連れ様」|白饅頭 @terrakei07 #note https://t.co/1KKHNtd3Xg
白饅頭日誌:1月13日「子連れ様」|白饅頭 @terrakei07 #note https://t.co/xrkpYSGXnW
— 太極C12H22O11 (@shiraki_sato) January 13, 2023
「子連れ様界隈」、ひねくれて結婚できない30代以上の童貞様と処女様が多そう。
これは、はっきりいえば鶏と卵をすり替えた詭弁であり、強者の傲慢である。
「恋人がいること」「結婚していること」「子供を連れていること」は、現代社会においては、自由恋愛の強者のシグナリングである。
自由恋愛社会では、「恋愛/結婚経験がない」という表面的事実を「人格的に問題がある人間の証」とし、そのような人間をいくらサンドバッグにし、疎外しても構わない、ということになっている。
そのように虐げられ、疎外されてきた人間が、「子連れ様」を「容姿や能力などの運に恵まれただけで自分たちを攻撃する醜悪な敵」とみなすことに、どんな無理があるのだろうか?
そのような「醜悪な敵」が、「恋人がいる」「結婚している」「子供がいる」という表面的な事実だけで「模範的な人格者・善人」として尊ばれ、さらに増長して自分たちを叩く現状において、「敵」の迷惑行為を糾弾し、「敵」の不当な地位の高さを破壊しようと試みることは、間違った行為なのだろうか?
順序が逆なのだ。「子連れ様」が弱者を好き放題殴ってきたから、これほどまでに「子連れ様」バッシングがエスカレートしてきたのである。「子連れ様界隈」は、強者や社会が行ってきた非モテや子無しに対する差別的行為の結果にすぎない。
※個人的には、現在の「子連れ様界隈」に女が多いとされていることについては、自由恋愛において「選ぶ性」である(=やろうと思えば不妊でない限りいくらでも子供を作れる)分際で何をほざいているのか、とは感じるが、それはまた別の議論だろう。
「子連れ様」は社会的責務として子育てをしているのか?
「子連れ様」の擁護として、「親は日本国を存続させるという社会的責務を果たすために子を産み育てているのだから、いちいちいちゃもんをつけるな」というものがある。
そんな「高尚」な目的を意識して子作りをした親は、全体の何割なのだろうか?ほとんどは「勢いで、性欲に任せてセックスしたら子供ができた」から産み育てているだけだろう。既婚カップルのうち4組に1組がデキ婚であるという統計データもある。
そもそも親という生き物が日本という国を少子化から救うために子供を産み育てているのが普通だとするならば、2を割っている出生率をカバーするために少なくとも3人以上は子供を作る世帯が大半になるはずだが、児童のいる世帯における平均児童数は2人を割っている。
![](https://assets.st-note.com/img/1673749641062-qOFr6qIO8Z.png?width=800)
この状況で、どうやったら「親は日本国を存続させるという社会的責務を果たすために子を産み育てている」といえるのか。単に「子供が欲しい(でも育てきれなさそうな数は欲しくない。少子化とか知らない)」という考えで子作りをしているに過ぎないのではないか?
「潤沢に投資しなければちゃんとした幸せを与えてやれない可能性が高くなる社会」においては、子どもは「希望」や「生きがい」というより「リスク」としての傾向が強くなってしまう。教育はその子ども個人としてはメリットの多いものであるが、しかしそれはマクロ的には「教育競争」を誘起してしまうし、「教育競争の敗者」へのペナルティをより増大させるものとなる。
かつて社会学者のデュルケームは教育について「個人の利益に資するものというより、社会の階層構造を安定的に更新するための装置である」と指摘した。「勉強の出来不出来」によって、社会の上位構造から下位構造までに「適材適所」で人を配置することが、教育の役割であると考えたのだ。だが、あまりに競争が苛烈化してしまうと、このシステムにもバグが生じてしまう。「負けると分かっている勝負にだれが参加するか」と、そもそもエントリーする子どもを提供しない人びとが現れ始めたのだ。
「十分な教育投資をしたい」という理由で親が子供を産み控える傾向があるのは、既に散々指摘されていることである。
親が子どもひとりにつき、あまりに分厚く教育投資を行ってしてしまう「教育投資レース」が加速するあまり、二人目の子どもを持ちたかったのにそれを諦めてしまう中流家庭が出ていると伝えるAERAの記事を踏まえ、この狂気的なレースが発生する本当の原因について書きます。https://t.co/BDl9UMYkCj
— 白饅頭(御田寺圭/光属性Vtuber/バーチャルツイッタラー) (@terrakei07) September 21, 2022
つまり、親個人の行動において、少子化改善などという項目は大して優先度が高くないのである。
では、なぜそのような出鱈目な「子持ち様」擁護が出てくるかというと、親という生き物が「個人主義と共同体主義のいいとこどりをして、『正しい』立場を保ちたい」からである。
親という生き物は、自由恋愛の勝者である。自由恋愛とは、「自分の狙った相手をパートナーとして選び、それ以外は切り捨てる」という個人主義的な性質を持つ。
更に子作りにおいても、先のように「子供は欲しいが、十分な教育投資をできないような数は産まない」という共同体主義に反する個人主義的な行動を、親は選択してきた。
しかし、親が何かしらの理由で糾弾される段になると、「我々は日本国を存続させるために子育てをしている、日本国維持のための犠牲者なのだ。いちゃもんをつけるのはかわいそうだとは思わないのか」と犠牲者ぶる。
自分のために恋愛をし、自分のために子作りをしたにも関わらず、自分が倫理的に不利に立たされそうになると共同体主義を持ち出して「正しさ」を装う。扶養控除や子供手当等で独身や子無しから財産を搾取しておきながら、更なる優遇を貪ろうとする。これが略奪者の欺瞞でなくて何なのだろうか?
子無しが子育てを「なんらかの資本力にすぐれた『勝ち組』だけにゆるされた娯楽的活動」とみなすことに、「子育ては簡単ではないから娯楽ではない」と怒る親もいる。
しかし、「子育ての結果、遺伝的もしくは環境的な要因で優秀ではない人間に育った」ことに対して、親は責任を取ろうとしない。むしろ、一定の年齢を境に「子の人生は子の責任」として、親の責任を放棄する言説がもてはやされている。自分の欲によって産み、都合が悪くなったら自分の製造物に対する責任を放棄するような「責任ごっこ」が、「娯楽的活動」でなくて何だというのか?
「親ガチャ」は1回限り。ハズレを引いてしまったとしても、どう振る舞うかを考えるしかない。悔やんでも仕方ないのは分かってるはず。毒親の下に生まれたことに責任はない。でも、自分だけの人生を構築できるのはあなただけ。あなたの価値はあなたがつくる。先だけを見て今を変えるしかない。
— いきる│アダルトチルドレンの解毒 (@minagawashi) January 5, 2023
かつて、殺人などの重罪には連座制の刑罰が敷かれていた。これは、「親の遺伝的要素や環境が罪人を作る」「罪人を育てた周囲の者にも罪がある」という思想に基づくものに他ならない。こういった思想こそが、真に「社会的責務として人を育てる」者の思想である。
「子連れ様」は、社会的責務として子供を産み育てている訳ではない。自分の欲のために産み育てているのだから、その行動の結果としての周囲への迷惑は、糾弾されてしかるべきだろう。それを被害者面など、強者の傲慢も甚だしい。恥を知れ。
子無しなのに、「子連れ様」のポジショントークに乗っかる者がいるのはなぜ?
子無しなのに、「子連れ様」擁護をしている者もいる。「子連れ様」非難を、「そんなことをやっているから子無しになるのだ」と糾弾する非モテ達だ。
子有りの差別的言論を、なぜ被差別者である子無しがトレースするのか。これは結論からいえば、差別者たる子有りの「正しい」言論の傘に入り、「正しさ」を得ようとする防衛本能的行動であると推測できる。
人間は、自身が生来抱えている後ろ暗い側面を、なにか社会的に意義のある営みに参加することで相殺しようとする。これ自体はとくべつめずらしいことではない。だれにだって、多かれ少なかれ備えられている認知的機能のひとつで、学問的には「反動形成」と呼ばれるものだ。
子無しである後ろめたさから、相反する「正しい子有り様」の差別的ロジックを自分の意見とすることで、「正しさ」のおこぼれに預かり「赦して」もらいたい、という意識である。
はっきりいえば、これは子有りに対する隷属であり、同じ子無しに対しての最も情けない攻撃以外の何物でもない。このような「そういうとこだぞ」論を「子持ち様界隈」は真に受ける必要もないだろう。
子無しよ、差別者に阿るな。阿ったところで子有りがお前を攻撃する手を緩めることはない。目を覚ませ。
まとめ
本記事を通して、下記6点をまとめた。
・「子連れ様」バッシングはけして的外れなものではない
・「子連れ様」が嘯く「困ったときはお互い様」は大嘘である
・「子連れ様」に自浄作用はなく、一括りに「迷惑な存在」として扱われることに抗議する正当性はない
・「そんなことを言っているから子無しになるのだ」は、因果をすり替えた詭弁である
・「子連れ様」は自分のために子を作るのであって、都合のいい共同体主義の持ち出しは詭弁である
・子無しが「子連れ様」バッシングを叩いても、けっして「正しさ」を得ることはできない。「子連れ様」は絶対的な敵だ。「子連れ様」擁護によって「赦し」を得ようとするな。
「子連れ様」は、カースト上位であることを鼻にかけた差別主義者である。被差別者である子無しから「子連れ様」バッシングが起こるのは、当然の現象であるといえよう。
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