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【特別対談】山崎颯一郎×芹澤隼輝。期待の若手2人が舞洲でプレーするまで

<掲載日:2018年1月26日>

※こちらは過去に実施した舞洲Voiceのインタビュー記事になります。

前回から、オリックス・バファローズ、セレッソ大阪、そして大阪エヴェッサと舞洲に拠点を構える3つのスポーツクラブの交流を促進するために対談企画をスタートさせた。今回は、その第二弾として、オリックス・バファローズ・山崎颯一郎選手とセレッソ大阪・斧澤隼輝選手が語り合う。前編である今回は、お互いのスポーツ経歴、高校時代の寮生活などを振り返っていただいた。

取材協力:健康スポーツ食堂「Athlete Table」

野球よりサッカーというイメージがあった2人


-まずはスポーツ経歴を教えてください。
斧澤:幼稚園の年少からサッカーを始めました。兄がサッカーをしていて、それを見て楽しそうだなと思ったのがきっかけです。サッカー一筋でやってきました。

山崎:小学3年生から野球を始めて、今までずっと野球をやってきました。ただ、保育園の時はサッカーをやりたいと思っていたんです。でも、祖父が野球を好きで、キャッチボールから一緒に初めて、やっているうちに野球が好きになっていきました。体育でサッカーをすると脚が使えなくてめちゃくちゃすぎたので、野球を選んで良かったです(笑) 。

斧澤:体格が良いので、やり込んでいたら化け物になっていたかもしれないですよ(笑)。

-山崎選手は、なぜサッカーをやりたかったのですか?
山崎:分からないです。 野球よりサッカーというイメージがあったんですよね。ですが、気づいたら野球をやっていました。

斧澤
:逆に僕は父が野球をやっていたので、野球をやったことはありました。それでも、兄の影響が強かったのでサッカーを選びました。

15歳で地元を離れた2人

-斧澤選手は長崎出身、山崎選手は石川出身ですが、それぞれの地域ではどちらのスポーツが盛んでしたか?
斧澤:長崎は国見(高校)の印象が強いので、サッカーかなと思います。

山崎:ハーフアンドハーフですかね(笑)野球のほうが強い気はします。

-斧澤選手は高校からセレッソ大阪の育成組織に入りましたが、その経緯を教えてください。
斧澤:中学までは長崎でサッカーをしていたのですが、セレッソ大阪のスカウトから声をかけてもらって、練習参加を重ねて入ることに決めました。

-山崎選手はなぜ敦賀気比高校を選んだのでしょうか?
山崎:結構聞かれるんですけど、その時はあまりここへ行きたいという高校がなかったんです。どこに行こうかと考えていた時に、春の甲子園を見ていたら、敦賀気比高校に進んだ地元の先輩が出ていたんです。そこでユニフォームがかっこいいなと思って(笑) このユニフォームを着て試合に出たいと思いました。

-斧澤選手は国見などの高校に憧れはなかったでしょうか?
斧澤:僕は中学から地元を出たいという気持ちはあったのですが、地元で頑張ることになったんです。高校からはJユースに入ろうという目標でやっていたので、強豪校には入ろうとは思わなかったですね。ただ、ユースに入ってからは、高校サッカーを毎年テレビで見て、いいなとは少し思いました(笑)

-なるほど(笑)。甲子園は活躍したらかなり注目されますね。
山崎:ツイッターのフォロワーがめちゃくちゃ増えますよ(笑)僕が2年生の時に先輩が甲子園で優勝して、僕は一球も甲子園で投げていないんですよ。ずっとブルペンにいたんですけど、バスで帰る時にフォロワーがすごく増えて、「凄い!」と思いました。

斧澤
:そういう経験はないですね…!

高校から寮に入った2人の生活

-高校から寮生活を始めて、苦労したことはありましたか?
山崎:中学3年生の時の感覚は“お泊まり会”だったんですよ。楽しいんだろうなと思っていたんですけど、入ってみたら全然違って、しんどかったです。上下関係もあるし、炭酸も飲んではいけなくて。3年生になるまで、ジュースは果汁100パーセントだけみたいな。


斧澤:高校1年生の時は研修や、身の回りも全部自分でやらないといけなかったのは辛かったです。ただ、高校の部活よりは上下関係が厳しくはないと思います。
山崎:上下関係について言うと、高校で厳しい経験をしたのは良かったと思います。それがないと、まとまりが効かなくなるんです。自分たちの代は40人くらい入ってきて、すごい数でやっていたんですけど、先輩が怖いからこそまとまるんです。

僕の高校は、毎年1学年20人くらいが通例だったので、僕らの代も20人くらいだと聞いていました。ただ、入学して1年生で集まったら、これ20人か?と思って(笑)。 後で名簿を見たら40人を超えていました。でも、他の県から来た子は意地でもやるんですけど、通っている子は辞めていくこともありました。
斧澤:ユースもそんな感じで、高校サッカーに移る人も中にはいましたね。

-寮の部屋割りはどうでしたか?
山崎:4人部屋と2人部屋が選べて、僕は4人部屋でした。学年はみんな一緒ですね。

斧澤:セレッソは2人か3人で、先輩と一緒でした。だから、そこでけっこう仲良くなれましたね。

山崎:僕らは2年生の先輩から、3年生には向こうから話しかけてくるまでは、話しかけるなと言われていました(笑)

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-部活とプロの下部組織だと練習のスタイルや時間も違うと思っています。それこそ部活には朝練がある、というような。
斧澤:ユースはなかったです。普通に起きて、学校に行って、帰ってきてすぐバスに乗って練習というような感じです。

山崎:実は僕も朝練はなかったですね。入る前から監督に「朝練はないから大丈夫」と言われていました。僕は朝が弱いので良かったと思いました。でも、朝練はなかったのですが、7時くらいに食堂へ集まって、コーチが朝の点呼をするというはありました。学校のすぐ近くに寮があるので、朝ごはんを食べて少しだけ寝ても間に合うくらいなのですが、点呼に遅れたら結構やばいですね。「おい起きろ」と放送が鳴るんですよ。「◯号室◯◯起きろ」と。罰とかはないですけど、怖かったですね。

特に1年生は朝に起きて、点呼前に食堂で整列するんですよ。それで先輩が起きてきたら、「おはようございます」ではなくて「うっす」と挨拶するんです。ちょっと「うっす」が大きかったら怒られることもありました(笑) でも、「うっす」ってなんだろう、そっちのほうが失礼じゃないかなと当時は思っていましたね(笑)

-振り返ると不思議なことは多いですよね(笑)。印象的な厳しい練習はありましたか?
斧澤:僕らはずっと走っていました。陸上部じゃないかと思ったことは結構ありましたね。走り込みの練習が最初は6セットと言われていたのに、いきなり12セットに変わって、倍になることもありました。サッカーの練習よりも走る量が多いようなクラブでした。ユースと言えばボールをたくさん触るイメージがあるんですけど、たぶんセレッソだけ違うんですよ(笑)

山崎:走り込みはありましたね。

僕は3年の時にピッチャーでキャプテンをやらせてもらっていたのですが、監督に言われたピッチャーのメニューを終えたら、監督に次は何をすれば良いかを聞きに行くんです。そこで監督が「じゃあポールやるか」と言うことがあります。レフトポールとライトポールを、野手のバッティング練習が終わるまでひたすら往復するんです。「これ意味あるのかな?」と思っていましたね(笑)

気になる、ドラフトの裏側


-野球とサッカーはプロへのなり方が異なります。野球だと10月に必ずドラフトが行われますよね。

斧澤:ドラフトかっこいいなあ。うらやましい(笑)

山崎:ドキドキですけどね。流れとしては、プロに行きたいという志望届をまず出します。監督が球団のスカウトにこういう選手がいるから見に来てと伝えて、スカウトが評価しに来て、指名を待つんですけど。結構前の段階で、「絶対君は獲る」みたいなことを言われるんですよ。

斧澤:ほんまか?(笑)

山崎:それで来るかなと思うんですけど、全然、その球団から名前を呼ばれないんですよ。あれ?みたいな。結局呼ばれませんでした。第一志望の選手を獲れたから、僕を取る必要はなくなったのかなと。

びっくりしたんですけど、オリックスが獲ってくれました。6位指名でしたが、5位とか6位になると、「呼ばれるのかな…?」と不安になるんですよ。僕はその日、校長室で監督と電話を待っていたんですけど、来ると思っていた球団から来なかったので、監督から「お前獲られないんちゃう?取材の人来てるから、謝って帰れ」と言われて(笑)それでもオリックスが指名してくれたので、とりあえず握手して、取材行くぞと。

<後編はこちら!>

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