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バカンス明けのフランスにて

バカンスが明けたらそこはロックダウンとテロ警戒レベルが引き上げられた世界になっていた。

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フランスは、3月のロックダウンから制限がかかった生活が続いている。その中で工夫をしながらそれなりに生活をしていたけれど、またロックダウンということになり、前回よりは緩やかだとは言いつつも、どこかで後戻りしたということは無視しきれず、どうしても前向きになるのが難しい毎日。

それに畳み掛けるように、10月16日には中学校の教師が斬首されるという身の毛もよだつ事件が発生。続いてロックダウンとほぼ同時にニースの教会でも同様の事件が起きた。

そして今日、フランスでは2週間の休暇が明けて学校が再開。社会全体がロックダウンになった中で、学校には衛生面での厳しい管理体制が求められ、さらに立て続けのテロで政府は国のテロ警戒レベルを引き上げ、安全面でも特別な体制が要求されている。

そんな中、今朝、学校では殺害された教師への黙祷とジャン・ジャレスの教師への書の朗読が予定されている。昨日の夜、子供達にこの事件をどういう言葉でどうやって伝えるのか、親の私たちは頭を抱えてしまった。でも細かいことは置いておいて、なんで黙祷が行われるのかくらいは理解した上で学校に行かせなければと思い、ディテールを除いて、教師が襲われる事件があったということ。学校は教育という大切な場であること。先生に敬意を払うこと。暴力はいけないということ。そんなことをなんだか支離滅裂だな、と思いつつ、そして全体を把握するには程遠いな、と思いつつ、なんとか言葉を選んで伝えた。今朝学校へ行く途中に親たちと話をしてみると、同じように大切だと思われる部分をかいつまんで伝えるということしかできないよね、と。みんな何が正解なのかわからない。親の私たちですらどう考えるべき問題なのか困惑している中で子供達にわかりやすい言葉でショックを与えない程度の言葉で簡潔に伝えることなんてほぼ不可能。なんかの修行のようだ。

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物事に説明をつけようとストーリーを考えても、それがどうしてもうまくできない。こういう時こそ冷静に、人間がなすことについて考える時だと自分に言い聞かせて見ても、言葉にならないほどの恐ろしい行為がありありと頭の中に浮かび、感情をかき乱す。考えるべきことがありすぎる。情報も。それと同時にコロナが、もしかしたら第一波以上の勢いでヨーロッパを襲う。家族に会うということすらも、いいのかどうか考えなければならず、そんな生活で知らず知らずに溜めていたストレスも重なり、起きていることに対する自分の無力さ、というか無能さに愕然として絶望的な気分になった。思考が完全に迷子になり、涙が出る。なのに適切な言葉は出てこない。情けないなと思う。

表現の自由とは、共和国の価値観とは、宗教とは・・・世界で起きていることが隣人との関係の中で立ち現れてくる。移民、難民。フランス人、外国人。いろんな背景を持った人たちが集まっていると私の世界と外の世界という境界線があっという間に取っ払われる。普通の日常生活を送る中で、人というのは自分の知らない世界、慣れない生活にエキゾチックな何かを感じつつ、そこには触れたいと思った時に触れる、というある程度の距離を無意識のうちに保つものなんだと思う。でも、この外との境界線が突如、なくなることがある。画面越しに見ていたはずなのに突然それが取っ払われてリアルとして目の前に世界が現れる。こうして、人間臭さ、そのまさに人間の生きることの複雑さを痛感する。フランスに暮らしているとこの守られた空間、ある意味何も考えなくても安心していられる空間が日本にいる時よりも狭いと感じる。常にこの世界にいるんだぞ、目を覚ましていろと言われているように。私なんかはまだまだこの安全区域がかなり分厚く守られている方だけれど、未知のものや目を背けたい事と面と向かい合うというのは必要不可欠だと思っている。フランスにいようが日本にいようが、いろんな形で人間の矛盾、複雑さ、自分の思考枠組みでは解読しきれないロジックと向かい合うときというのは簡単ではないと改めて痛感。だから、それと向かい合うための賢さ、強さ、そして優しさを子供達には身につけて欲しいと思う。


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