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首里城が燃えてしまっても…愛するオキナワについて想うこと。

昨夜、首里城が火事で燃えているというニュースが目に飛び込んできた。
濛々と燃え盛る炎の中に、昔自分が訪れたときのイメージを重ねてみて、これがあの赤くて美しい正殿なんだろうかと目を疑った。その姿を思わせる柱だけが炎の中に赤黒く見えた。
朝にはかなりの部分が焼失したと聞いた。

私はオタク的ボディーワーカーだから、なんでもすぐにそれと関連付けて考える癖がある。

私たち人間はカラダ、肉体という物質的な入れ物というかツールを持っていて、その中に思考や魂という目に見えない非物質的な性質を持ち、二つがともに機能して初めて、ヒトとして生命を持ち存在している。

首里城はどうなんだろう?
首里城はそのカラダをなくしてしまった。でもその場にはエネルギーが、目に見えない非物質の何かが存在し続けているはず。
それは14世紀からというから、800年などという膨大な時間、時代の移り変わりとともに在り方を変えつつ、そこに権力、文化、平和の象徴として、『Ryukyu, オキナワ』の顔としてそこに君臨してきた。目には見えないが、そこにかかわってきた人々の想いやエネルギーは残っている。

今は1万キロも離れた場所からオキナワを見ているが、私が沖縄に住み始めて10年弱の年月が経つ。顔を失ってしまった私の大好きなオキナワ。それを思うだけで、胸がギュッと締め付けられる。息が深く吸えなくなり、視界がぼんやりする。

でもオキナワが無くなったわけでも何でもない。目に見えない非物質のオキナワはずっとずっと存在し続けている。
じゃあ、私にとってのオキナワって何だろう・・・?目を閉じてイメージしてみる・・・。

オキナワは『受け入れる』。
(少し性質は違うが)戦争も、台風も、多くの人間が恐ろしくて逃げていきたくなるような物事達を、その深くて、ガバッと空いた懐にゴクリと飲み込んできた。オキナワには新しくそこに来たものを委縮させるような雰囲気がない。一歩足を踏み入れれば、ゆるゆるっといつの間にか受け入れられていることに気が付く。

そして、オキナワは『強い』。
オキナワは逃げない。痛みを飲み込んだ後に、すくっと立ち上がり、唄い、踊り、笑う。涙を吹っ飛ばして、力強く生き続ける。
私の知るオキナワの人はおじいもおばあも若者も皆、ガハハハハッっと大きく笑う。その明るさは太陽のよう。

あの明るさは強さの証拠だと私は思っている。

そして、オキナワは『美しい』。
その青い海、鮮やかな花たち、多様な動物達、人間を圧倒する自然。
そこに住む人々、うちなーんちゅの織り成す艶やかな琉装、唄、踊り・・・。なんか目が痛いような色濃い、蛍光の美しさ。

この三つがぶわっと浮かんできた。そう。オキナワは無くなってなどない。目の前に首里城というカオがなくても、1万キロ離れていても、私の中には確かに『オキナワ』が変わることなく存在している。

30年の大修復を終えたばかりで、今後の修復のことなど考えられないという教授のお話もあった。
でも、私にはあのエネルギーを持った土地にオキナワの魂がありさえすれば、首里城はいくつでも作れるんじゃないかと思うほどだ。
オキナワはまた新たな痛みを受け入れた。しかし彼らは強い。必ずその美しさを取り戻すだろう。
・・・と私は信じている。それが私の想う『オキナワ』だ。

私はオキナワを愛し、今は離れているがそこに住まうナイチャーだ。
オキナワがその顔を取り戻し、より輝くことができるのなら、そのために私のできる限りのことをしたいと心から思う。

大丈夫。首里城が焼けてしまったのは悲しいけれど、『オキナワ』の魂は生き続ける。

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