見出し画像

「坂本竜馬」資料で分かる実像は?「薩摩藩お抱えの佐久間象山塾生」

まず“竜”の意味

司馬遼太郎さんの小説の「竜馬が行く」の竜は存在する書状では使用されておらず正確には“龍馬”。この時点で暗に司馬さんは“フィクションでは?”という問いに逃げ道は作れてる。

たとえば「中泉総理は決断した」

こういう小説はありますよね?

明治の竜馬小説第一号の完全フィクション『汗血千里駒』が元となっていることは確認されており「十代まで寝小便で箸にも棒にもかからないが剣に目覚め飛躍する」云々。

『汗血千里駒』とは坂崎紫瀾の伝記小説。

1883年(明治16年)1月から高知の自由民権派の新聞『土陽新聞』に連載された。坂崎は前年に不敬罪に問われ保釈中で、刑が確定した6月から3ヶ月は休載している。物語は龍馬暗殺とその後日談まで描いており、一応完結しているが、最終回に次回を予告する文言が入っているので、厳密には未完である。

発行停止などの弾圧をたびたび受けていた『土陽新聞』は、1883年(明治16年)に一般大衆向けに紙面刷新し、挿絵つきの続き物を掲載し始めた。「汗血千里の駒」はその第1弾であった。幕末の坂本龍馬の行動を、( 略 )。坂崎紫瀾にとって出世作であり代表作となった。 略 新聞連載時は「汗血千里の駒」であったが、単行本化にあたって『汗血千里駒』となった。摂陽堂から出版後に、春陽堂から再版され最も広く読まれた。この版は雑賀柳香によって加筆修正されたもので新聞連載時とはかなり違ったものになっている

つまり高知県民向けの新聞小説。そしてさらに面白く、と加筆までされている。

日本初の新婚旅行。日本初の新婚旅行を行った夫婦は坂本龍馬・お龍夫妻とされているが、これは本作品において、寺田屋事件後の夫妻の薩摩旅行を「ホネー、ムーン」(ハネムーン)と表現したことに由来する。

以下が、該当部分の引用。

自と彼の西洋人が新婚の時には「ホネー、ムーン」と呼びなして花婿花嫁互ひに手に手を取りて伊太利等の山水に逍遥するに叶ひたりとや謂はん

眠狂四郎の円月殺法との類似 不可能に凄すぎることに気付くべき

剣が回りだすや一回転するまでに必ず相手は斬られる。楽しめはしますが嘘とは思う。この注意眼。

エンゲツ

剣の道を究めた後は万国公法を学び海援隊を結成? そのために何が必要となるのか? 歴史家の加来耕三さんにいわせると

蘭学を学び数学にも長け、砲術、航海術で軍艦を動かし万国公法に知悉し、海援隊設立。

しかし十歳までは寝小便ばかりの見放された劣等生。このキャラクターの飛躍。

西洋砲術入門者として佐久間象山の塾に入った形跡はある。そこに「坂本龍馬」のサインはある。しかし北辰一刀流千葉道場門下の形跡は影も形もない。当時はそういうものはあるものである。

※つまり全編通じて現れる剣豪のくだりは完璧フィクション

脱藩前に姉は病死。それは墓碑で確認できる。

切腹などしていない。

坂本龍馬の真実はこんな感じかな?

「佐久間象山(しょうざん)」wikiより

象山は自信過剰なところがあり、それ故に敵が多かった。数々の多大な業績を残したにもかかわらず現在に至るまで彼の評価が低いのもその性格に由来するともいわれる。しかし当時の日本において象山は紛れもない洋学の第一人者だった。彼を暗殺した河上彦斎は後に象山の事歴を知って愕然とし、以後暗殺をやめてしまったという。さらに彼の門弟には前述の松陰をはじめ、小林虎三郎や勝海舟、河井継之助、橋本左内、岡見清熙、加藤弘之、山本覚馬、坂本龍馬、などと他にも多数の日本を担う人材を輩出し、幕末の動乱期に多大な影響を与えたことも事実である。象山が横浜開港を徳川幕府に主張したことにより横浜港が開かれた。後に幕末の志士たちにより徳川幕府が倒され明治の世が到来するきっかけを残した人物である。

その象山と交流が深いのが高島秋帆(しゅうはん)

「高島秋帆」wiki

寛政10年(1798年)、長崎町年寄の高島茂起の三男として生まれた。文化11年(1814年)、父の跡を継ぎ、のち長崎会所調役頭取となった。藤沢東畡によって大坂市中に開かれた漢学塾であり関西大学の源流の一つの泊園書院に学ぶ。当時、長崎は日本で唯一の海外と通じた都市であったため、そこで育った秋帆は日本砲術と西洋砲術の格差を知って愕然とし、出島のオランダ人らを通じてオランダ語や洋式砲術を学び、私費で銃器等を揃え天保5年に高島流砲術を完成させた。

ここで頻出するグラバー商会との関係。“長崎”に通じる

グラバーが関係を築きたかったのは佐久間象山、高島秋帆、勝海舟等。

長崎の高島秋帆の元で肥前の鍋島公も講義を受けている。肥前は西洋近代兵器購入に最も熱心だった。高島秋帆が核。龍馬が中心のはずはない。

グラバーは長州とも密接であり、長州五傑、伊藤や井上と英国の関係を取り持っていた。

これで龍馬の行動半径は長州とも江戸とも長崎ともつながる。
この象山人脈が龍馬人脈の核。

常にどこでも下っ端?ではありますが、フットワークは軽く行動的で親分たちから好かれている形跡はありますね。

杉田水脈

そういえば自民党のこの方が頑張る「竜馬プロジェクト」って? いったい何を目指すのか、ぜひききたい。

※さらに平成初期に新資料!

鹿児島県のある農家の蔵から先祖所蔵の書状が見つかった。

探しましたが出ませんでしたが総合テレビで放送されていたようで。

手書きの相撲の番付表って言われてわかりますよね


それは旧自邸での西郷党の出席者の一覧。上下関係に厳しい時代なのでそれは上のような出席者表である

>平成の初期に龍馬の格付けのわかる資料が出てきた
>鹿児島の古い民家の蔵から西郷隆盛とその仲間の集会の記録、西郷党の集会の記録
>注目を集めたのは議事録ではなく出席者一覧
>相撲の手書きの番付表と言われてわかる?そんな感じでまず横綱のように
>大きく西郷隆盛の名前がまずかかれてあり
>その次に大関のように側近の桐野利明 篠原国幹などなどと名前は続き
>字はそれよりどんどん小さくなり奥の畳の間にいたであろう幹部の名前

>そしてさらに下に小さく小さく彦兵衛や作之進などのよくわからん名前が細かく続いてた

〇これでわかった!

>彼らは土間にすわる群党でしょう?
>その中にまぎれて小さく「坂本龍馬」

竜馬「よお西郷ドン!」
西郷「これはこれは龍馬殿、遠いところをかたじけない」

ではない。

薩摩の使い走りだった可能性がほぼ確実になった瞬間である。

つまり使い走りとして彼を長州に送り、桂小五郎をなだめた。
桂は背後に西郷の影を感じつつ龍馬の言葉を聞いた。

口は西郷、眼は龍馬

となると、薩長同盟を画策して幕府打倒を仕組んだのはまったくもって龍馬ではなく西郷あるいは大久保利通。その一枚でここまで確定的に類推できる。

○薩摩は幕府である会津の京都見廻役と組み二つの変で長州を弱らせて追い出し、転じて長州と組み、討幕へと動いた。幕末は西郷と大久保、薩摩が完全に掌の平で転がしていた。

もう一つ龍馬について。グラバー商会でも佐久間門下でも勝海舟でももし本当に大物なら普通はどこかに居ついて幹部や執事や高弟になっていないだろうか?大物なので自由人とします?

ともあれ顔の広さと行動半径が龍馬の長所。そこに薩摩が目を付けたのです。しかし扱いはかなりの格下。

小説により、竜馬は受験戦争期の非エリートの心をつかみそういう人が支持したとされる。

他秋山兄弟についての史実。あの戦争は二人にかなりの心の傷を残してしまった。

真之は大本教に入信、好古はやや精神の乖離をおこしていたと半藤一利氏はいう。

良い悪いではなくまず史実。大本教が良いか悪いかはともかく、それで中将どまりになった。



この記事が参加している募集

探究学習がすき

何かの形で社会に還元します。あるいは次回の無料記事に。でも水準保証の返金付きですから安心して、胸躍らせてどうぞ。