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7.永遠である

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ラジオのような感じで聞き流してください。
YouTubeにアップするにあたって、
少し体系的にまとめています。
このnoteは、文字起こししたものです。

こんにちは
世界の仕組みを知って楽に生きる
メッセージをお伝えしています、
maikoです。

今日は、
存在の本質は永遠である
という話をしたいと思います。

このテーマは話すことがたくさんあるので、
ボリュームが大きくなってしまいそうですが、
「私はいはない、世界は幻想、
ではなぜ?なんのために生きるの?」
というよく聞かれる疑問にも答えるかたちにも
なっていると思うので、
よければ最後まで聞いてみてください。

さてまず、今日の本題である
永遠である、
ということについて、
最初に少し説明します。

永遠というのは、
私たちの生きている現実世界においては、
無限に続いていくという意味であり、
それは時間というものがあって初めて成立する
概念です。

でもその私たちの現実は、
全てのものが刻一刻と変化していくという意味で
現れては消えていく、幻想のようなものであり、
実際にここに存在しているのは、
まさに存在そのもの、
存在エネルギーとも言えるようなもので、
そこには時間というものがありません。

この、
時間という概念がない、
とはどういうことかというと、
時間というのは、
可能性のある全ての状況から一瞬を切り取って、
それを個別に、順番に、
認識した時に生じるものです。

一方、
この存在エネルギーについては、
全ての可能性が
完璧に、そして同時にあり、
もう既に完結しているので、
時間といった流れのようなものはなく、
無時間ということです。

ですから、
存在の本質が永遠である、というのは、
実は正確な言葉ではないことを、
一応分かっておいていただけたらなと思います。

では、ここからは、
時間について、
もっというと時間と命について、
少し掘り下げて話をしていきます。

途中、
真理や悟りのお話とは一見関係のないような話に
感じられるかもしれませんが、
最後にはつながってきますので、
少し”お時間”をいただけたらと思います。

先ほど申し上げた通り、
時間というものは実在しないものだとしても、
私たちがこの世界で生きている上では、
確かに時間というものがあるような気がします。

でも、実際に時間自体が何かと聞かれると、
それはとても難しい質問ですよね。

物理学上では、
光速、つまり光が進む速度だけを不変としていて、
時間というものは、観測者や空間によって変わる
相対的なものだとしています。

でも、そんな難しいことを言わなくても、私たちは、
時間というものは、
夢中になっていればあっという間に過ぎ、
何かを待って時計ばかりみていると
とても長く感じるし、
毎日の出来事が何もかも新鮮だった子供時代と比べて、
日々のルーティンを過ごす大人になってからの方が、
1週間・1ヶ月・1年が早く過ぎることを
実感しています。

そう、いつだって時間が相対的なもの、
もっと言えば個人的なものだなんて、
よく分かっていることです。

さらに、よく、
「時間だけは1日24時間、
誰にとっても皆平等に与えられている」
なんて言い方されますが、
そもそも人によって寿命が違うのですから、
時間がみんなに等しく与えられたものという
感覚もありません。

ただし、
時間が短いから悪いとか可哀想
ということでもありません。
赤ちゃんが、例え短くても、
一瞬一瞬のかけがえのない思い出の素晴らしさを、
生きることの意味を、
他人のつらさを思いやる優しさを、
他の人が長い一生かかってもできたか分からないくらいに、
両親や家族に教えてくれることもあります。

これらのことからも、
時間とは、個人がそれぞれに、
この世界で与えられた命そのものである
と言って、異論はないと思います。

ここで、
どのような仕組みで
この世界が現れ、
私たちに時間という命が与えられているのか、
それを説明していきます。

ここからの話は、
私の解釈論だと思って、
聞いていただければと思います。

全ての可能性を持っているという意味で
全ての全てであり、
未だ可能性でしかないという意味で
無である、
この存在エネルギーは、
無時間であることは先に言った通りですが、
それは、例えていうと円の状態です。
丸、完結した円です。

そこに、時間という概念を加え、
ある一瞬を切り取ると、
円上の一点となります。
そして、時間を進めていくと、
円上の点がぐるぐる回転します。
それは、始まりもなければ終わりもない、
永遠です。

時間軸というのは、
直線形ではなく、円形なんですね。
でも、私たちにとっては直線形で、
始まりがあり、終わりがあり、
一方通行のように感じるは、
その一部分を切り取ってみているからです。

これが、
私たちの体験している有の世界、現実世界です。

このことは、
そもそも時間を目にみえる形に表した時計が
円をぐるぐる回っているし、
地球は自転し、太陽を中心に公転し、
太陽及び太陽系は、天の川銀河の中心を周回し、
天の川銀河も宇宙を周回している様子にも、
現れています。

で、時間が回転、つまり直線ではなく巡るもの、
というのは、
大きな2つのことを示しています。

まず、1つ目は、
どこにもたどり着かない、
ということです。
目的地はありません。
だって元の位置に戻ってくるんですから。

これは、ものすごいことです。
だって、私たちは何かっていうと、
すぐに、
生きる目的とか、
何を達成するか、とか、
目指すゴールがあると思っちゃうし、
そのゴールに辿り着くことに意味があると
思っちゃうじゃないですか。

でも、どこにも行かないんですよ!
もともとどこも目指してなくて、
元いた場所に帰ってくるだけです。
つまり、
どこにたどり着くかには
意味はないってことです。
だとしたら、
もし意味があるとしたら、
もう、その道のり自体にしかない
ということになります。

次に、
時間が、回転、つまり直線ではなく巡るもの、
ということが示していることの2つ目は、
ある1点を基準にした時、
その他のある1点は、
前とも言えるし、後ろとも言える
ということです。

時間軸で言うと、
過去にも未来にもなりうるってことです。
原因にも結果にもなりうるってことです。
どおりで、世の中、
鶏が先か卵が先かって
悩むようなことばかりな訳ですよね。

それで、先ほど話をした
私たちが与えられている命=時間というのは、
切り取った一部分"だけで"あるという意味で、
存在そのものではなく錯覚、幻想、投影、夢ですが、
切り取った一部分"では"あるという意味で、
存在そのものの一側面です。
ですから、
私たちにその存在の本質が現れてくるのですが、
それは音も光も匂いも何もかも全て含まれている
エネルギーのようなもので、
それが私たちの意識には、
時間として認識されるのではないかと
思うのです。

そして、
この世界に現れている私たちは
本当は自由に動ける個別の存在ではなく、一体だから、
同じ時間を共有しているけど、
それぞれの個人からみたら、
まったく違う時間感覚となっています。

ここで、
今日の本題の
存在の本質が永遠であるという話を
していきます。

今日の最初の方でお話しした通り、
時間という概念がない存在エネルギーの完全性は、
時間という概念のある世界においては、
時間が回転、つまり直線ではなく巡るもの、
つまり、
始まりもなければ終わりもない、永遠として
現れています。

そして、
私たちが、
本当の自分とは、
自由に思考し判断し行動していると思っている
この個別の存在ではなく、
存在そのものであると知ったとき、
私たちは、
どこかに向かう必要はないと知ります。
何かを達成する必要もないと知ります。

時間が永遠にあって、
目的や、達成すべきことがなければ、
どうしますか?
そうです、遊びます。

私たちは、
「この世界も私も、夢であると知って、
どうするのか」
遊ぶのです。

そして、
全ての遊びとは物語を生きることです。
おにごっこでも、
対戦遊びでも、
人形遊びでも、
ごっこ遊びもそうです。
物語には、何かしらの設定が必要です。

遊ぶとは、
「どうせこの世界も私も夢なのだから」と、
「どうせ自由意思はなく
全て起きるべきことが起きるのだから」と、
あきらめて生きることでも、
虚無的に生きることでも、
無気力に生きることでも、
投げやりに生きることでも、
ありません。
台本通りの人生を台本通り完璧に演じることです。
与えられた役を本気で演じることです。

決められた台本を生きることに何の意味があるんだ、
そう思いますか?
では、役者さんが真剣にお芝居しているのは
無意味でくだらないことだと思いますか?

私たちはなぜ物語を読むのでしょうか?
なぜ映画やドラマを見るのでしょうか?

役に立つからではありません。
何か目的を達成するためでもありません。

ただその時間、生きていることを、
何なら現実に生きていることよりも
もっとリアルに命を感じたくて、
物語を見ます。

人生に目的なんてありません。
もし目的があるとしたら、
ただ、存在していることを感じるためです。

ただし、
真剣にはなっても、
深刻になってはいけません。
真剣と、深刻は違います。

だからこそ、
真理を知ることが、
絶対に必要だと言えます。
人生を遊ぶためには、
この世界は幻想で、
本当の自分は永遠で完全だと
知る必要が絶対にあります。

探求、つまり本当の自分を知ることが、
絶対に第一で
それより優先されることはないということです。

だって、
この自分がいつでも存在の危機にさらされていたら、
ウカウカ遊んでられないじゃないですか。

そして、
徹底的にこれが遊びだと分かっていなければ、
すぐにマジになって深刻になって、
それは遊びにならないじゃないですか。

私は、
ずっと幸せを探して、
そして悟りを探して、
本当の自分を探して、
探求してきました。

以前は、
自分を高めるためとか、
学ぶためとか、
成長するためとか、
そんなことばかりになって、
読む本も、
ビジネス書とか自己啓発本とかばかりになって、
物語や小説に没頭することは
無意味で無駄なことのように
思うようになっていました。

そして、悟りやノンデュアリティのことを
知ってからは、
その知識に飢えていて、
本や動画をあさり、貪るように、
読んだり聞いたりしていました。

でもある日、
それがパタリと止みました。
ずっと止められなかったのに、
急に探求に関する情報に興味が
なくなりました。
本当に本当の自分を知ったからだと思います。

そして、今、私は、
本当は台本通りだけど、
まるでそれは
自分で自由に考え、判断し、行動するかのように、
真剣に私を演じています。
ありがたいことに、
演じようと思わなくても
自然とそうなっているんですけどね。

そして、
命が尽きるとき、
何を成したか、
何を達成したか、
何を得たか、
ではなく、
一瞬一瞬全力で遊んだかどうかだけを
自分に問えばいいと思えるのです。

さて、
今日は存在の本質は永遠である、
という話をしました。
いかがでしたか?

これからも世界の仕組みを知って、
真に生きるメッセージをお伝えしますので、
よかったらチャンネル登録して、
聞いてみてくださいね。

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