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共通言語という昭和の甘美な思い出とハラスメント一考

ああ言えばこのハラスメント、こう言えばあのハラスメント。
ごりごり昭和のサラリーマンを歴代の上司や同僚として接してきた氷河期世代の私には、ここ数年間でのハラスメントハラスメントとも揶揄される状況が新鮮すぎる。だいたい私くらいの世代を挟んで、ごりごり昭和現役世代と、アンチ昭和まではいかないけれどそれ普通じゃないよと言える世代が存在するように見える。

昭和とは

ところで、ごりごり昭和のサラリーマンとはなんぞや。
オフィスの執務室でタバコを吸っていたとか、怒る部長から灰皿が飛んでくるとかいうタバコネタなのか、飲み会では新卒女子を必ず隣でお酌させることなのか、若手男子を三次会と称してキャバクラへ連れていくことなのか、土日はゴルフ場にいることなのか、二徹三徹してリゲインからユンケルへと差し入れドリンクが変化することなのか。

景色としてのごりごり昭和はつまりそんな感じで、既にノスタルジーの域だ。
そして心理としてのごりごり昭和は、半沢直樹なんだろう。どんな状況になっても転職するという選択肢が出てこなくて、同じ会社の皿の上に乗る限られたパイを奪うゲームに日々邁進している。別のパイを求めず、おそらく存在も知らない。

半沢直樹を思い出す

少し前にNewsPicksの番組で誰かが話していたが、半沢直樹が広い範囲の世代に受け入れられたのは、ごりごり昭和を各々の世代で解釈していたからだという。昭和現役世代は「昔の俺はこうだった」という武勇伝的な思い出と共に振り返り、30代以下は「こんな時代あったんだ」という別世界としての理解。
全世代に受け入れられたからといって、その中身は全く異なるもので、それはつまり、職場や世間の実権と本流を握っている(と思っているだけの場合もある)ごりごり昭和のメンタリティと言動が、それ以外の潮流に気づいていないという側面を示し、結果、ハラスメントハラスメントなる海溝に陥っているのだろう。

共通言語にまつわる変化

地上波テレビでゴールデンタイムに放送されていることや新聞の一面は、もはや共通の話題にはなり得ない。震災やコロナ禍を経て、情報の取り方が変化した人も少なくない。オンデマンドや配信アーカイブは、これまでのライブ放送という一過性一方向の形式から、情報へ接するタイミングとリアクションを視聴者へ委ねている。

昭和はマスと呼ばれるメディアに属した情報が共通言語のメインストリームを構築し、それを知っていることが一定の有利さを醸成したように、言葉に対するベーシックな共通理解が存在していた。細かな注釈や説明を挟まずとも、行間や文脈から読み取れる世界観までをお互いに共有できるという楽観的な思想が、そこそこうまく成り立っていたといえる。

平成では共通言語が細分化した。個人で、国内外を問わず、また「起きたこと」だけではなく「今起きていること」さえも手に入れられるようになったと同時に、メディア機能を個人が実装できるようになったことで、細分化は促進された。
個人の発信に不特定多数をつなぐ大きな共通言語の存在は不要で、共感する範囲の人だけに届けばよい。つまり知っていることで有利になる情報の種類が個人によって変化し、普遍ではなくなったのだ。これまでとは異なる土俵ができあがり、数で圧倒する個人の発信源は、昭和の共通言語メインストリームと並列する存在となった。

ハラスメントハラスメントのゆくえ

共通言語にまつわるこのような移行が、ハラスメントハラスメントを助長している傾向は多分にある。お互いが共通した世界観やコンテキストのもとに暮らしているという楽観的な思想は既に立ち消えているが、そこしか知らない人と、その存在さえ知らない人との間に生じる海溝のひとつが、ハラスメントハラスメントという状態なのだと思う。

ハラスメントハラスメントがなくなれば、じゃあ働きやすくなるのかというと、たぶんそうではない。職場という限られた空間にいる人々と自分との間にある共通言語を掘り当て、必要があれば新たに構築する営みが勤め人には必要なスキルかもしれない。

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