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貧弱な思考と語彙の帰結

女性がいると長くなりがちな会議の話から考えたとりとめのないことの記録だったものを少し経って読み返した時に、これは老齢化する過程をいかに生きるかという問いにもなると思ったので加筆修正、したところ、さらにとりとめなくなった結果のメモ。

会議が長くなるのはファシリテーターの能力不足と、参加者の怠慢である。
事前のアジェンダ周知、当日資料の事前共有、つまり参加者がインプットした上で会議に臨み、アジェンダのタイムラインが区切られていれば・・・とここで会議術を書くつもりは毛頭なく、まぁああいった組織体で行われている会議体が、あまりそういう性質ではないことが露呈しただけの話だ。

これまで複数社を経た会社員生活の中で、性別、年齢、学歴、学閥、雇用形態、国籍、保有資格、因習など、いろいろな壁と出会った(当事者が自分のこともあれば自分以外の人が壁に出会う場面に居合わせたことも含む)。
まだ17年間しか働いていないが、ちょっと思い出すだけでもこれだけ出る(他にどんなものが出るかを考えるのも楽しそうだ)。バックパッカー時代は人種、言葉の壁があったし、幼い頃は体格、体力、運動能力、家柄などの壁があった。

壁、と表現したが、本質的には蔑視、差別要素だ。そこには何らかの力が働き、上下関係が構築される。
特に会社員生活ではたくさんの壁と出会う。個人的な経験だけに照らし合わせると結構そんな連続だ。それは出会い頭の事故のようにある日突然遭遇するものもあれば(「お、xx大学の体育会yy部なら安心ブランドだな」)、農場一帯に張り巡らされた電子柵のようにどこまでも連綿と続くように見えるものもある(産後の復職時はだいたい母が時短勤務)。針の穴のように小さなものもあれば(Slackで3人宛のメンションなのになぜかいつも作業するのは同じ人)、航空機くらいの大きさと重さと速さで襲いかかってくるものもある(「あぁそれ、こないだ喫煙所で決まったんだよね、ごめん話してなかったっけ」)。

昨今、民衆化したハラスメント意識はベーシックな規定事項へ変換されたが、まだまだ表向きなところも多い。無意識に構造化されたヒエラルキー概念を持つ多くの会社員たちの無意識下で「性別、年齢、学歴、学閥、雇用形態、国籍、保有資格、因習」といった要素は、今も壁の一因として息づく。
(もちろん壁のない会社員生活もある。それに壁のことを忘れられる素晴らしい時間の方が圧倒的に多いので悲観する必要はまったくない。会社員というのは新しい世界を手軽に知ることができる手段の中でも、ずいぶんと恵まれている点には感謝してもしきれない。)

そんな壁も、壁の存在を認識し、しなやかに乗り越えていこうという風潮により、越えられる存在に変わりつつある。ただし重要なのは、壁自体が越えられる存在になっているわけではなく、壁と対峙する人々の意識下で越えられる存在に変化しているということだ。つまり「壁と対峙する人々」以外の人々の無意識下には、歴然と壁が存在する。雑に二分すると、越えられる壁だと思う人と、そうでない人との間にひずみが生まれた。

今回の「会議が長くなる」事象には、まさにそのひずみが関与したと思う。新しい風潮や思考のインプットが足りないままに、そして足りないと自身では認識しないままに、無意識下のアップデートされていないヒエラルキー概念に沿って意見を述べた。彼にとってはそれが普通だった。ただそれだけなのだ。

「ただそれだけ」と思ってしまう自分をよくないと反省しつつ、彼らの年代の無意識下をアップデートすることは絶望的に難しい。既得権益を保有していれば、あとは死ぬまでその確約された自由のきく世界で今までと同じことをすればいい。
これは自身の老齢化過程でも言えるのだろうが、自分よりもはるかに大量の情報を得て複数の世界観やスタンダードを認知、理解、実践している人々と同じスピードで自身をアップデートし続けていくことは、よほどの能力と気概がないと無理だと思う。なぜなら、記憶とそこからのアウトプットなどを司る脳、そして内臓や筋力など身体に関する問題は、明らかにスピードを出せるかどうかと密接に関わるからだ。

再掲するが、これに尽きる。

新しい風潮や思考のインプットが足りないままに、そして足りないと自身では認識しないままに、無意識下のアップデートされていないヒエラルキー概念に沿って意見を述べた。

思考と用いる言語のアップデートなくして、世界に発信し続けることは難しい。彼はそれを知らなかった。十数年前であれば世界と並走できていたであろう思考と語彙でしゃべってしまった。

ニューノーマルの世界の中で、非対面コミュニケーションが恒常的となり、言語化は私たちの必須能力となった。ニュアンスや察するという、生身の人間が相手だからこそ成り立つセンシティブなスキルの優先順位が下がりつつある。昔なら記者がその辺を忖度するプロセスがメディアの役割の一部でもあったが、そんなものはもう存在しない。アップデートによる補強なき貧弱な思考と語彙の帰結をもうこれ以上見たくないことを国民の一人として強く要望する。

と思う私の立場もまた、壁を再構築している。こうやって世界には幾重にも埋まらない断絶が増えていく。
ただしそれを揶揄するのではなく、そして断絶を埋めるむなしい努力をするのでもなく、老齢化という人類が皆たどる道程に対し、今の自分という立場で老齢化過程に思いをはせたことを書き留め、今の自分より少し老齢化した時に答え合わせをして、その時の自分がどう思うかをまた書き留めていく。そういう個人の思考をいちいちピン留めしておく営みこそが、壁を壊すあるいは超えていく動力源となり、結果的に今回の裏テーマである老齢化過程に関する意識や価値観の揺れを更新していくのだろう。

ということで、生産人口ど真ん中の今の私が感じる問いと、そこから感じた備忘録が以下に続く(え、今までのは前置きなんかい)。

アップデートによる補強なき貧弱な思考と語彙は、本当にネガティブなものなのだろうか。そして、老齢化する過程における「失っていると知らずに失っていく」ことをどう捉えればよいのだろう。

失っていく、と捉えること自体は、先述した「自分よりもはるかに大量の情報を得て複数の世界観やスタンダードを認知、理解、実践している人々と同じスピードで自身をアップデートし続けていくこと」を前提としている。そんな世界がこれからも本当に続くのだろうか。
容器としての身体の寿命と、満ち足りた1人の人間として活動するために必要な思考や情緒の寿命。2つが同じペースで減ることはなく、たいていはバランス悪く減り、悪いバランスの結果が様々な症状として診断される。
アップデートし続けられず、症状がのしかかり、過去の自分よりもダウングレードしているかもしれないという小さな疑念を胸に毎日生きることになったら、老齢化過程は絶望と同義になってしまう。

誰しも今日より明日は歳をとるわけで、老齢化過程のベクトルの上に乗って生きている。その終わりが何となく見えてきたかもという時に、「何かを自分は失っている」と思えることで、その時点の自分自身と周囲との距離感や断絶箇所、密着具合を確認できるのかもしれない。そこからまた新しい自分を始められると、失うことも悪くはない。

というところまでを、今日の思考のピン留めとしたい。


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