「ちはやふる」恋愛パート考察※最終巻ネタバレ注意【8/9編集・追記】

 まずは末次由紀先生、ちはやふる長期連載本当にお疲れ様でした。

 競技かるたの情熱、人間ドラマが熱く描かれた素敵な漫画作品でした。
 末次先生特有の、倒置法や体言止めのつかいかた、色彩あふれる比喩表現の仕方、つまりは言葉の扱い方がすきなのです。
 そこに末次先生の絵が合わさるのがほんとうに好きなのです。

 今思えば、そういう日本語のうつくしい運用方法を熟知されている先生が和歌のまんがを手掛けるということの贅沢さがことさら身にしみます。

 ちはやふるには競技かるたとは別に恋愛パートが盛り込まれていました。よくよく考えてみたらこれは少女漫画だったのです。

 わりと最後の方までどちらとのエンディングを迎えるかわかりづらかった、というところで、驚かれている読者さんもたくさんいる印象でした。

 私はどちらかにものすごく肩入れをして読んでいたというつもりはないのですが、かといって今回の終わり方がそこまで唐突かと尋ねられたら、そうは感じません。
 でも、主人公の“心変わり”があったことは事実です。なので、どのあたりからルート分岐していたのかな? ということを検証してみたくなって、恋愛パートメインで一から読み直し、布石と思われるところを拾い上げてみました。

 自分なりの解釈になりますし、最終回に何ら否定意見を持っていない人間の考察なので、不快に思われる方はおのおので自衛をお願いいたします!

 あくまで私はこんなふうに楽しんだよーということで、ご容赦いただけると幸いです。


①前置き

〇前提としておそらく数度に渡る構成変更が生じている

 末次先生の大型連載復帰作である、前代未聞の競技かるた題材のまんが、などなどといったところで、反響の予測も立てづらかったことでしょう。まして少女漫画でこれほどの巻数に渡り連載が続くことというのはまずないので、当初はもっと短期スパンでの構想から始まっているのではないでしょうか。

 目指すところがクイーン戦のみではなく、団体戦もふくめた長期連載となったあたりで、構成・展開の練り直しはあっただろうと思われます。

 また、太一は当初ここまでメインキャラにする予定ではなかったが、本人が頑張りたいと言うので続投にしたというエピソードを語られています。これはおそらく高校生編あたりからのことでしょう。

 ということで、小学生編の時点では千早と新+太一の物語であったのが、高校生編からは千早・新・太一それぞれが主人公格であったという認識で考察します。

〇3人の立ち位置(8/9追記)

 上記とやや重なりますが、3人それぞれが主人公格=千早をヒロインとした三角関係もの、という認識の上で進めます。
 小学生編で千早の情熱のエンジンとなり、また初恋の相手としても描かれる新の存在は確かに”正ヒーロー”と呼ぶにふさわしいやもしれませんが、だからといって再登場時点から真島太一が完全に”当て馬””準主役キャラ/モブキャラ”として描かれていたかと言われれば、そうではありません。

 そのため、当初から(本作はほぼリアルタイムで追っています)恋愛における新ENDが既定路線だったという考えは私にはないことを最初に断っておきます。
 私個人のことを言えば、少女漫画のヒロインが初恋の相手と結ばれるべき/心変わりするのは好きじゃない、といった感性もあまりなく、それはそれとして受け入れられるタイプです。
 ここを頑として譲れない方にとっては読めば読むほどもやもやするだけの記事になっていると思いますので、いやなセンサーが働いたら無理はなさらないでくださいね。

②布石

〇千早は初期に太一を異性と認識している様子がある

 紆余曲折ありましたが、真島太一と成就しました。千早からの再告白でした。

 これについて私自身は特に”急展開“という印象は持ちませんでした。というのも、ごく序盤から千早が太一を異性として意識するような描写はしばしば挿入されていたように思うのです。

「あのな 男の部屋なんかポンポンはいるもんじゃねーし おれだって入れねーよ」と言われた際の反応

太一が千早のケーキを食べた瞬間の千早の表情

(最近太一がなんか変だ)というモノローグ ― 3巻

太一「おれの部屋行く?」

千早(あ なんか変な感じ ドキドキする)― 8巻

 などなど。

 また、特別視しているような描写ももちろんのことながら多々見受けられます。


千早(だけど太一が勝ったとき 負けたとき 一人だったらどうしようと思うんだ そんなのはいやなんだ)― 7巻

千早「私がいまいちばん大事なのは太一がA級になること」― 9巻


 千早の恋愛対象は新でしたが、だからといって太一のことがアウトオブ眼中だったかと問われれば、それにしては意味ありげな描写が散見されます。



〇“恋とは楽しくない”

この発言は太一と千早の関係性において追々効果的に響いているように思います。

千早「じゃあ恋ってどんなのよ」

太一「そいつといても楽しくないってことだよ」

千早「太一は彼女といても楽しくないの?」

太一「楽しいよ。言うこときくしやわらかいし」

 ―2巻

 これは暗に千早に対する思慕の吐露であるのですが、話が進むにつれ、千早は太一に対し苦悩を抱く割合の方が大きくなっていきます。太一自身が情緒不安定ということももちろんあれど、それほど感情を揺さぶられる相手というのが太一であり、それでも“そばにいる”ことを選んでいきました。

(別の話になるので割愛しますが、太一→千早のみでなく太一→かるたについても同じことが言えるように感じており、いろいろ深読みしたくなる台詞です。千早にとってかるた=新であったように、太一にとってはかるた=新・千早とも言えたのではないかと)


〇千早は新のものだという太一の強い諦観

 これがおそらく意図的に繰り返し挿入されています。

 改めて追ってみると、中盤以降で千早→新を明確に匂わせるパートというのは減っていくのですが、物語中一貫して“新には勝てない”という真島太一の諦観が描かれ続けており、作者の意図によるところか読者にも刷り込まれていった側面はあるように思います。

 ちなみに、太一ががっかりしていたら、千早が予想外に太一のことをよく見ていた(考えていた)というシーンもままあります。

千早「太一も勝ってたらここにいたんだよね それすごいよね 戦ってみたかったよね」―22巻


〇菫による解説

 千早の心理描写が極端に少ないことはおそらく意図的ですが、太一に片思いを抱く菫が登場してからはしばしば菫目線でのふたりが語られるようになります。

菫(綾瀬先輩は真島先輩をちっとも見てないのに)

太一の「タオル下さい」コールに即座にタオルを差し出す千早を見て何か思う菫

(油断ならない)―10巻


千早「太一だ 知らない人みたいなかるたを取るのに太一だ 太一なのに知らない人みたいだ でも太一だ ずっと一緒に 頑張ってきてくれた男の子だ」

 太一と試合で向き合う千早をみて、千早が太一を見ている、と感じる菫

菫(あの瞳が真島先輩がつかみたかったもの)―20巻


菫(大好き先輩)(綾瀬先輩もきっと……)―26巻

 菫が太一に告白した後のモノローグです。

 特に20巻付近では太一に対し“知らない人みたい”という感想を千早が繰り返し抱いています。


〇二人がもたれかかるシーンがしばしば挿入される

1度目は電車内、試合後寝落ちした千早が太一にもたれかかるシーン。

6巻送迎車内、寝落ちして姿勢の定まらない太一を千早が引き寄せるシーン。

18巻再び電車内、千早と太一がお互いもたれかかって眠るシーン。

象徴的な描かれ方に思えます。

そのほかにもこの二人の身体的接触は多く、少なくとも千早に抵抗はない様子です。


〇17巻の時点では千早は新への恋心を明確に自覚している

これは揺るぎようのない事実です。

(私は一生かるたが好きで 新が好きなんだ)―17巻

というモノローグに加え、その後の富士崎合宿のエピソードで恋バナをふられ新のことを想起する様子、病室で新に向けて短歌を書く様子からもはっきりと伺えます。
このときの恋する少女のようなきらきらとした千早は本当にかわいいです。

しかしその時点で太一が土俵から退場したかと問われるとそういう風には読めず、むしろ新と太一が交互に対比的に描かれる機会が増えました。

たとえばこのモノローグを含む17巻の巻末は、ヒョロに「真島は綾瀬がいない方が強い」という指摘をされたうえで、

 千早(私はきっとまだなんにもわかってないんだ 太一のことさえも)―17巻より引用

 という衝撃で締めくくられます。

 この“太一のことさえも”という言い回しから、千早にとっては新よりも太一が身近な存在であり、いうなれば安全パイ、ずっとそばにいておだやかに関係が続いていくのが当たり前の存在だった、と取れるでしょう。その前提が揺らぎだしたのがこのあたりです。


 また、新のことを、

(神にかかる枕詞 千早振る)―17巻

 というモノローグと被せる描写があり、新=神様の構図はまだ抜けてはいないようです。

 新のことが一生好きと千早が感じる際、千早は詩暢との戦い方について新に尋ねており、そこで新から助言を得た原風景はのちに瑞沢の部室になります。

 そしてこのとき、新と電話をする千早の表情を見て、千早のための花束を選んで病室を訪れた太一の存在も効果的に描かれます。

 そして象徴的であったのが、作中ではよく詩暢と新のイメージを被せて描かれている点。富士崎合宿での恋バナでは女子部員から「かるたに片思いしてるみたい」との指摘。この時点で、新への恋愛感情とともに、リスペクト精神、千早にとっての目標とする存在であることも示唆され、新=かるたのメタファーとしての扱いも目立っていきます。


〇転換期「ゆらのとを」

 試合において寝落ちしてしまった千早の隣で太一が勝利を決めるシーン。

太一(千早 起きてくれよ せめて見ててくれよ おれの運命を)―15巻

「ゆらのとを」は作中でも解説がある通り、行方のわからぬ恋を詠んだ歌です。

 このモノローグとともにゆらのとが読まれ、その瞬間千早が目を覚まし、札を取った太一を見届ける、という演出は何かしら意味深なものを感じていたのですが、いかがでしょうか。

 また、この後の千早はA級決勝戦鑑賞を差し置いて太一の試合を見届けにくるなど、太一に肩入れした行動を多々起こします。

 それを案じた太一はよりエンジンがかかり、早々に優勝を決めて千早をA級観戦に引っ張り出そうとするシーンがありますが、そこでは千早が太一の昇級を泣いて喜ぶ姿がありました。


〇新の宣戦布告と告白

新「千早は別に誰のでもないよな」 ―20巻

 序盤は千早→←新として描かれていたので、新が自分の思慕に自覚的になった時点で太一に勝ち目がなさそうなものなのですが、あえて宣戦布告が描かれます。

その後23巻では新が思わずぽろっと千早に告白する場面がありますが、ここでも太一が周防に「彼氏です。ちょっかい出さないでください」と語り掛ける画が大きく挿入されます。

 なお千早は、

千早(好きだって言われた日から指先とお腹がいつもあったかくて変なんだよ 新のせいで変なんだよ) ―24巻

 と、告白を喜ばしく思っている描写がきちんとありましたが、返事はしていませんでした。

 告白については太一がなんとなくそれを察知し、新に「ちは」の札を送るシーンがあります。

 これは千早が「欲しいものほど手放す」とちは札について語っていたことと紐づけられているようにも取れますし、最低限ちは札=千早として扱われていることは間違いありません。

 これで少なくとも太一の矢印がまだ完全には折れていないことがわかります。

 また、太一が土俵から振り落とされたわけではなさそうに感じられる演出でした。


〇秘密を共有してくれない太一に対する不穏

千早「なんで?私太一が名人になりたいなんて聞いたことないよ」 ―20巻

千早「言えないのが太一なんだよね」

奏「そう思ってしまったら考えることも止まっちゃうから 千早ちゃんは考え続けてあげて下さい」 ―25巻

 おそらくあえて千早から距離を置こうとしたり、格好悪いところを見せたくないといった理由で何事も不言実行しがちな太一に対して、徐々に千早は疑問を募らせていきます。

“なんとなく聞きにくい”という漠然とした感覚から、直接尋ねることができずなんとか消化しようとしますが、繰り返し「なんで?」というモノローグが差し込まれます。

 これについては最終首で「綾瀬がただの友達だから」とズバッと指摘してくれた勉の発言によりカタルシスが得られるのですが、今となっては=千早も千早で太一をただの友達以上に感じていた・求めていたと解釈できますね。

千早「なんで太一はあんなきつそうなの」「笑ってほしいよ」 ―26巻

 バレンタインのエピソードですが、チョコレート作り中千早の頭は太一でいっぱいのようでした。

 また、菫が「綾瀬先輩もきっと(太一が好きだ)」と感じたのもこのタイミングです。

 また、こういった千早のメンタルの揺さぶりから上述したような「そいつといても楽しくないのが恋」という定義が生かされてくるような気がします。


〇太一の告白

 26巻前後に相当するエピソードです。

 落ち込む太一を励ましたい千早が、白波会の先輩である広史に話を聞くよう依頼する、誕生祝をかねて太一杯を開催するなど、太一のためにアクションを起こします。また、心理描写でも太一への呼びかけが圧倒的に増えていきます。

「好きなんだ 千早が」―26巻

 桜舞い散る情景下。桜という花は太一に対ししばしば効果的に使用されています。

 この際、新から告白を受けた時とは全く違う反応を千早はしており、それについての深い言及はありませんでした。“ぶわっ”という効果音は、かつて新からの告白を受けた時に奏が回想した奏母の「細胞すべて入れ換わる瞬間」という表現がやや当てはまる気もしますが、わかりません。

少なくとも、太一との関係性が決定的に変わってしまう、あるいは喪失してしまう恐怖や焦燥、混乱は感じているような様子です。

 事実、この後退部を決めた太一に対して、千早は強い動揺と抵抗を示しました。


〇札が全部真っ黒に見えている千早

「おまえは俺が石でできてるとでも思ってんのか」

「やれねーよかるた 今百枚全部真っ黒に見えんだよ」―26巻

 なんとも悲痛な告白文句ですが、言わずと知れた名(?)シーン。

 このとき太一が“全部真っ黒に見える”と言いますが、実は告白を受けた瞬間、先に札が真っ黒になっているのは千早目線のほうにも見える演出がされています。

 千早はこの際太一から不意打ちでキスをされますが(太一杯の賞品が“キス”であったのも布石だと思います)それについては一切語られることはありませんでした。

 ただ、その後も太一との身体接触を拒む様子は一切みられなかったので恐らく不快感はなかったのだろうと推察します。

 千早は告白に「ごめん」と振った側にも関わらず、はじめて太一から明確な拒絶と線引きを受けることになります。

 咄嗟に「新は?」と新の存在を想起したのは、この瞬間はじめて恋愛という側面で新と太一の両方は選べないんだというチームの亀裂が千早の中で身に染みたのではないかと考えます。

 そして、太一は安全地帯の男の子ではなくなり、千早たちのもとを一度去りました。


〇太一の喪失にメンタルバランスを崩す千早

 千早は初めてと言っていいほどひどいスランプに苛まれ休部を決断します。

千早「私が岩だったんです 岩で 粉々に砕いてたんです 太一の気持ちをずっと」

「休部させてください」

千早(私まで休部してるなんて太一が知ったら負担になる ダメだ)―27巻

というように、太一とかるたから逃れるように勉強に打ち込み、

奏「部長と千早ちゃんは月と太陽みたいでしたよね」―27巻

 という奏の台詞が用いられたのもこのときでした。

 千早の思考は新とは別の形で太一で埋まりましたし、単純に応えられなくてごめんね、という悩み方・落ち方ではないように見えます。また、このタイミングでの新の干渉は特にありません。

 いかに太一が千早における精神的支柱だったかということが明るみに出るエピソードでした。


〇「せをはやみ」

 太一不在の団体戦において、決勝進出を決めた札は「せ」=太一の得意札であったことをメールで報告する千早。“岩に堰き止められ分かたれた川がいずれはまた合流するように、未来でまた巡り合いましょう”という恋の歌で、この歌を太一は好きだと過去語っている場面がありました。

 また、クイーン戦においても運命戦に残った札は「せ」と「たち」でした。(後述)

千早「遅いよ太一 終わっちゃったよ」―32巻

 ずっと巻いていた太一の鉢巻きを太一に返す千早。

 謝罪する太一。

 最後には「次は試合で」といつかの新を模したような菓子箱のメッセージを残し、かるたを続ける意思を見せた太一に千早は“ばあっと道が拓けた”ような感覚を抱きます。


〇太一の幻影を見る千早

 このあたりからここぞというときに幻として千早の前に現れる太一というのも象徴的です。ちなみに太一も千早のまぼろしを見ますが、それは新とセットの姿。
 しかしタイミングは違えど近江神宮の御前という同じ場所で互いの幻影を見ていることはなんとも意味深です。まるで"会っていた"かのような……

千早「でも、気配は感じるの」―30巻

 瑞沢団体戦で思い描くのは常に太一の戦い方であり、声掛けでした。

 この言葉は45巻、クイーン戦で新に太一からメールが届いていたと知り、自分のところには通知がないことにあからさまな落胆を見せた千早に対し、新がリフレインしています。

 また、その際新はふと、なにか思うような表情を見せています。


〇来なくなったちは札

 太一との騒動以降、千早のもとに「ちは」札がきにくくなった描写がされています。


〇太一に対する反応の変化

 34巻における部室掃除・カラオケ大会では、まだぎこちなさの残る中、太一の笑顔に対し少し頬を染めむず痒そうな顔をする千早、という新しいリアクション。また、部室を守り切れないかもしれないと焦る千早の様子を見て太一がカラオケ大会に参戦し無事保守するなど、お互いがお互いを気に掛ける描写。

 37巻「真島太一が人を頼るきわめて稀なケース」では、袴の仕立てに付き添えないことにあからさまなくやしさをみせ、勉もやや興味深そうな表情をしています。


 また、太一に対するモノローグの変化もこのあたりから。

(太一がいる 太一がんばれ)―36巻

(でも太一が取れてるならいい いい)―39巻

 後者に関しては新と太一の名人挑戦位決定戦でのモノローグであり、新よりも太一に肩入れして応援しているような様子がありました。

 このときS音を取り逃した千早に発破をかけるように見せつけた太一の持っている「すみのえ」の札は、意図があるのかないのか(末次先生のことなのでありそうな気はしますが)“夢の中でさえどうして会いにきてくれないのか、あなたの心は私にはないのですか”という恋歌です。


〇執着したら勝てない

 周防の指導を受けた太一は、東西戦では“勝ち負け”への執着を手放し、柔軟かつ狡猾なプレースタイルを披露しました。

 けれどもここぞという場面で太一が「来い」と強く念じた「ちは札」(39巻)。

 1枚に執着すると自滅する、という新のモノローグを差し置いて、見事「ちは」を払います。ここにきて「ちは札」の使い方に意味がないようには思い難いです。

 また、この太一のプレースタイルの変化やモノローグには、やはり以前の「手に入れたいものほど手放す」がかかっている気がしますね。

 この戦いで太一はくしくも敗退となりますが、それに対し千早は静かに“強い涙”(奏)を流します。


〇その他印象的なシーン

 奏に千早のことはまだ好きなのかと聞かれ、「もうよくわからん でも だんだん薄れていくんじゃないかなって思うよ」(40巻)と答えるシーン。真顔の千早に真っ黒な和柄(紅葉?)が印象的です。
 聞こえのよい千早はこの声をしっかりキャッチしていたことがのちに明らかになります。
 一度振った存在である太一が、千早のことを過去にしようとしていることを千早に自覚させるための一コマだったのではないかと思います。

 抜け駆けで行った名人位予選敗退し帰ってきた太一を、千早が背中越しに振り返る修学旅行中のシーン(20巻)。こちらも紅葉が押し花のようにあざやかにあしらわれており、絵画のようにきれいな1ページです。

 本編で真っ赤な恋の歌と語られた“ちはやふる”の札をも想起させる演出です。


〇クイーン戦にて遠隔で千早(と周防・新)を支援し続ける太一

 広史曰く人のために動き続けた太一は、ここで千歳とも対峙します。

千歳「千早がくれないぶんをさ 足りないって思うぶんをさ じゃあどうしようって足掻いていくしかないよね」―45巻

 千歳の千早への複雑な心境が表在化した場面であり、太一も“満たされないもの”として語られていますが、このときの太一の行動が結果千早の核たる千歳を繋ぎ止め、千早を満たす結果に繋がっています。


〇クイーン戦では太一と関連のある札が何度もピックアップされている

 45巻では「たれをかも」が太一の歌というモノローグとともに。

 47巻で太一が現れたときには、千早がS音を2連取。

「すみのえ」夢でさえ会えないのならあなたの思いはここにないのかと歌う、かつて太一が発破をかけた札。

「せをはやみ」岩により分かたれた激流が再びひとつになるようにあなたとまた巡り合いたいという太一の得意札。

 その際、千早はこんなモノローグを語っています。


(太一が来た でもそうじゃない ずっといた)―47巻


 47巻では新が詩暢の意思を受け近江神宮に走りますが、咄嗟に詩暢と千早のどちらを応援すべきかで思い悩み、太一に“自分のことを考えろ”と引き戻される場面がありました。

 これに対して、千早は新VS太一のとき明らかに太一に肩入れしている描写がみられました。


〇「せ」と「たち」の運命戦

 これはもう完全に暗示だと思います。

 太一への布石であり、チームちはやふるの原風景への帰結というすばらしい演出でした。

「せ」は上述の通り、「たち」は太一の札。“あなたが私の帰りを待つと言ったならすぐに戻りましょう”

 当たり前のように「せ」を送り、「たち」を残すチームちはやふる。

 このときの「たち」札はあきらかに太一のメタファーです。

 そして詩暢のモノローグにおいて、小倉山荘における「ちは」の対の札は「たち」であるという語りを経て、見事二人は「たち」を勝ち取ります。


〇「おれたちにはかるたがあるから また会えるよ」―最終首より

 いつか千早の言った台詞を象る別れの言葉を聞き、千早は太一に告白をします。とても美しいシーンなのでぜひ見ていただきたいです。

 かるたがあるからつながっているのではなく、かるたがなくても人生でつながっていられる存在になりたい、と願ったということでしょう。

 ここで引用されている有名な仮名序には「生きとし生けるもの いづれか歌を詠まざりける」という文言があり、これについては奏もかつて触れているように、思いは言葉のかけらだけでも歌になる。

 千早は太一の告白を歌だったと解釈して、自分にできうる精いっぱいの返歌をするという、和歌の世界に落とし込まれた見事なエンディングです。


③補足

 このように、千早→太一の布石は明言化されていないだけで随所にちりばめられていて、最終首で太一エンドを迎えたことに大きな疑問はありません。

 以下、いくつかの疑問点に対する自分なりの解釈です。

〇太一と千早の恋愛成就と、本編中の太一の課題の両立が困難

 真島太一は千早のためにかるたを始め、千早を手に入れたい・卑怯なことをしたくないという葛藤に悩み、かるたで絶対に敵うことのできない新に打ちのめされながら、自分にとってのかるたとは何かを模索していくキャラクターだったように思います。

 千早のそばにいたい、という思いを手放してしまったら、かるたを続ける動機が初期の太一にはなかったわけです。

 周防曰く「きみは全然かるたを好きじゃない」太一を繋いでいたのは、かるたの周りにいる仲間が好きだという思い。

 けれども、最終的に千早との離別を決意しても「かるたがあるからまた会える」と話し、名人位についた新に宣戦布告している点を踏まえても、最終回時点ではかるたを継続することを決めている様子が伺えます。

 新との戦いを経て、千早への思慕も溶かそうと(「環境変えないと」)し、自分じゃなくなりたいと、自分になりたい、と唱えた結果、ようやくかるたと太一の間に介在するものがなくなり、太一は“かるたをやりたい”という直接因子のみでかるたと関わり続けることを選ぶに至った。

 それには、かるたでは新に敵わない。千早も新に敵わない。という挫折が必要だった。

 ここに至るために早々に太一←千早を本人が確信してしまったら、あるいは新と千早の成就はないとわかりうる状況になってしまったら。つまりは太一が報われる保証ができた時点で、太一のある種の“他者依存”と“自己否定”のループからの卒業はできなかったし、自己実現の機会も失われたわけです。

 そう考えると、最終回に太一がトンネルを抜けるまで作者が答えを明示できなかったことは必然のように思います。


〇真島太一の離脱には意味があった

 正直なところ後半の太一の離脱は見ててつらいことの方が多かったですし、そこは千早のそばにいてあげてよ、最後まで部長でいてよ、と思わないでもなかったのですが、太一の目線にしてみれば「新がいるから自分はもう邪魔」でしかなくて、身を引いてるわけなんですよね。だから千早の中で何度も太一の存在がリフレインされていることなんて知る由もない。

 でもよく考えてみると、彼らが健全な関係性を保つためには恋人関係になる前にお互いからの自立が必要だと思えます。

 たとえば太一を失ってガタガタにメンタルバランスを崩しかるたが取れなくなるような千早でなくなる必要が、千早うんぬんとは関係なしに自分のためにかるたを取れる太一になる必要が物語上あったわけで、そうなると「ずっとそばで支え続けていた太一不在の大勝負」、「ずっとそばで応援したかった千早の試合会場にいない自分」という経験は、やはり欠かせなかったんですね。
 また、このエピソードがなければ太一が東西戦まで駆け上り新と対峙することも、母との関係を深めることも、周防という人間に本当の意味で出逢うこともなく、かるたは高校生活の思い出として封印されていたかもしれない。すべては変わっていたでしょう。

 ともすれば共依存チックになりかねない不安定でぎりぎりの関係性を清算し、かるたを介さず恋人関係として進むためには、描かなければならない期間だったのだなと自分の中では腑に落ちています。


〇新と詩暢は神様から友達になった(8/9追記)

※ツイッターにあげたものの転載です。

 本作で千早から神様というモチーフを冠されているのは恐らく新と詩暢だけです。しかし、新も詩暢も神ではないということもきちんと作中では描かれています。
 詩暢は中盤以降準主人公のように描かれていますが、彼女は孤独を好き好んで選んでいたわけではない、孤高の存在でいたいわけではないということ。
 それを見抜いた上で詩暢に食らいついてきたのは千早だけであり、クイーン位についても選手交代というよりは"ともに勝ち取った"新たなる称号のようで、その描かれ方がちはやふる独特でした。
 詩暢はラスボスではなかったんですね。むしろ囚われの姫の方だった。

 新に関しては、綿谷名人の孫であるというプレッシャー、幼い子供には過酷であっただろう介護の日々の記憶を経て、彼は彼で足元をすくわれる思いを何度もしてきました。
 彼の中で綿谷名人が、綿谷名人ではなく「ただのおじいちゃん」に還ったのが最終首のあの瞬間であり、あのときはじめて新は最愛の祖父の喪失を受容できたのではないかと考えます。
 千早たちとは対照的に、閉鎖された世界の中で孤高を演出していた彼らだからこそ神がかり的な神聖さがあり、それを打ち崩すことで救いになるというところまで持っていかれました。
"神様じゃなくて友達でいたいよ"(2巻)という千早の言葉が、明確に回収された終わり方であったように思います。


〇千早と新、太一と新(8/9追記)


 千早は新を一生好きだと言いましたが、それが嘘だったのかと問われれば嘘ではないはずです……とはいえ当の本人に宣言したわけではないので、裏切り行為には当たらないはずですが。
 千早にとって新はかるたそのものであり、神様のような存在である、という書き方をしましたが、私にとっての神様とは=指針です。
 何かあったときに心のうちで問いかける存在。
 良心、はたまた教科書のようなもの。

 その立ち位置は太一には取って替わることが絶対にできません。
 千早が追い続けるのはいつまでも新の背中だと思います。

 そして太一も案外と、”こんなとき新なら”と想像する機会が少なくはないのです。
 ともすれば、太一は千早のことよりも新のことをいつも意識しているように見えます。
 千早にとって詩暢が”絶望とあこがれ”であったように、太一にとっては新がそうだったのでしょう。

 最後に「たち」がふたりを勝利に導いたことは、太一と千早が結ばれる布石であること以上に、”チームちはやふるで勝利を勝ち取った”という意味だと考えています。きっとあれはチーム戦で、3人は一緒に戦っていたのです。

 千早にとって、詩暢は救いにいく対象なのに、新は新のまま。
 神様であり新のまま。
 そこは明確に差別化されていた点で、私はこれが3人の物語であるという主題が崩されたとは思いません。

 そして新はずっとわだかまりとなっていた”祖父の死の受容”に至っています。
 彼にとっての綿谷名人は、かるたの名人ではなく、自分を愛してくれたたったひとりの祖父であったことを思い出します。
 そのことで、徐々に新の世界が外へ開けていく様子が描かれます。
 ここに末次先生が新というキャラクターに込めたテーマを伺い見ることができるように思いますし、新が千早と結ばれなかったから虚しいキャラクターだった、とされてしまうのは非常に無念に感じるところです。(あくまで個人の感想です。)
 

〇真島太一はまだスーパーカーに乗ってない説(8/9追記)

※ツイッター転載

 真島太一のかるたの才能は新や千早のそれとはちょっと違っていて、その知能を生かした暗記力が武器として描かれます。これって実は、強くないですか。強くないですか……?
 ”ブーストがかかっている”と原田先生の証言も得られ、感じのよさを培おうともしている太一の能力はここがゴールではないように思います。
 真っ赤なスーパーカー(by猪熊元クイーン)になりつつある太一と、新・千早の再戦、顛末が気になるところですが、余白を残して終わるからこそ物語はよいのかもしれませんね。
 けれども、自分は凡才だと思い続けた太一の火が着火し、あわよくば長く燃えてくれることを祈りたくなります。

 なんせ、”青春全部懸けた”って、”青春は何度でも来る”のですから!


④お疲れさまでした

 ともかくはこの一言に尽きます。
 お疲れ様でした。ありがとうございました。

 読み返して思ったことは、恋愛パート少な! でした。笑
 特に序盤は探し出すのが大変でした。

 そうです、ちはやふるはかるた漫画。スポ根まんがなのです。
 ドラマに満ち溢れた、熱いドキュメンタリーのような名作です。
 けれども同時に、屈指の恋愛漫画であると私は思います。百人一首という特殊アイテムを暗喩的に使いながら、こんなにも綿密に布石の打たれた恋物語を追える作品って、なかなかお目にかかれないものではありませんか?
 もちろん恋愛要素以外の充実度もすごい(というかそっちがメイン)ので、もしちはやふる未読でこのnoteをご覧くださった方がいれば、ぜひ一度読んでみてください!! と強くお勧めしたいです。

 何事においてもそうですが、自分の目で、耳で、こころで判断したものがすべてだと思います。食わず嫌いするにはもったいない作品ですから、どうぞ! と私は全力で! ちはやふるへの愛を叫びたいと思います。

 長々とお付き合いありがとうございました。
 しばらくはちはやふるロスに浸ります。

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