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祖父と戦後の船場ー商人の街ー

船場センタービル……
大阪市の中央東西をはしる高速道路の下にある商業ビル。
本町~堺筋本町にかけて伸びている。
高さがないかわりに横へびよーんと伸びている。1号館~10号館とまるで団地みたいに。

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写真と図はここから引用:船場センタービルHP
https://www.semba-center.com

母はいう、
大阪もね、
ミナミは難波や心斎橋あたりまで商店が賑わっているし、インバウンドとかで観光客がいっぱいくる。
キタは梅田あたりは再開発が進んでいて賑わっている。
でもね、船場あたりはシャッター街よ。ここだけポッカリ取り残されてる。
なんとかならんもんかね。

2000年頃の話

この船場センタービルの地下の一角に、両親が、婦人服の店を出していた。
私が小学生の頃だ。
私が記憶しているのは、
古びた商業ビル(最近、外装はきれいになっているが)の地下は、どんより薄暗い通路、シャッターだらけ、お世辞にも活気があるとは言えない。若い人というより、おっちゃんおばちゃんらがいるイメージ。
そこで、
ゆったりした楽な服装の父が、マダム世代が着る大きなサイズの服に囲まれている。看板娘というべきサトちゃんというマネキンは店の電気を消したあと、暗闇で見ると怖かった。
経済は平成もずっと低迷していて、個人事業でやるのはなかなか厳しい。
お店も、商売繁盛どころか、ぼちぼちでんなーと言うのも渋られるくらいの状況だった。
そして、父は店を閉めることを決断した。

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<お店の未来を考える前に、お店の過去の話>

商売というのは浮き沈みというのがある。
父母は子どもらに心配かけないようにと心がけていたのだろう、
そういう不安感を家庭の中では漏らさないようにしていた。

お店を閉めるか閉めないか、
そしてお店を閉めてから父が知り合いのつてを頼ってまったく別の商売を始めたときとか、
いろいろ不安定な状況だったと思う。
子どもは、中学生、高校生となっていき、どんどんどんどんお金が必要になってくるだろう。
今、振り返れば、そこから無事大学にいくことができて、自立できるくらいまでの教育の機会を授けてくれたことには父母に感謝しかない。

先行きの不安感を家庭内に漏らさないようにしていたとはいえ、
子どもの立場からいろいろな疑問はあった。

・そもそも、なんでそんな厳しそうな場所で商売なんてやってたんだろう?

・父がサラリーマンじゃないのなんでだろう?

・店を閉めてからも、のちにテナントが入ってくれるかどうかと母が心配しているのはなぜだろう。

父母がどうやって仕事をして生計をたてているか、家計は大丈夫なのかいろいろ気になっていた。

とはいえ、そういう突っ込んだ質問したら、子どもには関係ないでしょう?と一蹴されそうだったし、親にとってみたらこれ以上立ち入られたくない領域だってあるだろうなと思った。
子どもとしては勉強に励んで早く大人になろうと思うしかなかった。
聞きたいけど、あえて聞かずにいた。

だから、私が少しずつ年齢を重ねていく中で、この範囲までやったら質問したらいいかな?なんて考えて、少しずつ疑問を解消していった。

・船場センタービルで商売をするようになったのは、祖父(母方の)の時代からだそうだ。

・父も私が幼いときまでは会社員(衣料品関係)をやっていたらしいが、その会社で働き続けることのの迷いが出てきたときくらいに、祖父の店の手伝いをしないかとなり、そして店を引き継いでやるようになったそうだ。

・父母の店は祖父母の代からやっているが、そればテナントとして借りていたわけではない。持ち店のようだ。それも歴史的背景がどうやらあった。

そして、現在、私ももう、30歳を目前に控えており、
もう立ち入ったことも聞いてもいいだろうということで、
いろいろ母に尋ねた。
幼いころから疑問だったこと、直接聞けなくとも感じ取れたこと、見た光景、それぞれを尋ね、つなぎ合わせて、
私が生まれてきて、記憶が始まるまでの過程を知ることになった。

物書きのサガなのか、私が生まれてくるまで、どういう物語があったのだろうか、ルーツを知りたくなった。
浮かんできたのは
戦後の混乱期、和歌山の田舎から憧れの大阪の船場にて商売をはじめたという祖父の姿だった。

物質や情報に溢れすぎている平成生まれの私からすると、戦後の混乱期、高度経済成長期の話はなかなかダイナミックで面白かった。
大阪の街がどうやってできてきたかその一部分が見えてきた。

このnoteは父母から聞いた話、私が調べた歴史などをメモしたものである。

歴史的な部分は
https://www.semba-center.com/history/
を大いに参照した。
ほかわらからない部分、wikiさんも参照した。

1945年~1946年頃の話ーたみおの帰還ー 

<世の中の出来事>
1944年-1945年にかけて 大阪に度重なる空襲、市街地が焼け野原
1945年 太平洋戦争の終戦

たみお(祖父)が帰還する。
戦争が終わってからしばらく捕虜として捉えられていたが、無事、たみおは和歌山の湯浅の実家に帰ることができた。

「たんちゃんが帰ってきたー!!!!」
たみお母は息子がすっかり死んだものだと思っていたから、飛んで喜んだ。
「ぶじだったかねー??」
「うん、うん、このとおりよ」たみおはニカッと笑った。

戦争の生存者としては、戦時中のことを語るには口をつぐんでしまうことが多いのだが、たみおは違った。嬉々として話す。

「炊事係に立候補したんだわー。戦いたくもないし、飢えたくもないからなー」

たみおはどうやら、隊員の食事をつくる役についていたそうだ。
こうすれば、なるべく戦わなくていいし、食事にもありつける。
お国のためにわが命さえという他の隊員の空気の中、生き残る術を考えたという。
そういうちゃっかりしているところは、確かに祖父のキャラクターに沿っていると私は思う。
「父ちゃんの戦時中の話はまったく悲壮感がなかったわ」母が言う。

たみお母は三男坊のたみおをとても可愛がっていた。
「たんちゃんに土地わけてあげて、このとおり。ちょっとだけでいいから」
たみお母は長男に懇願した。
長男、しぶしぶ三男に土地をわける。

しかし、たみおは、和歌山での農家の仕事はどうも、しんどいと思った。
大阪に出ようと決断した。
もともと、赤紙で招集されるまえに、知り合いのつてで大阪に働きにでていたそうだ。そのこともあったのだろう。

たみお母としては、たんちゃんがそばにいててほしかったのかもしれないが
当のたみおは、大阪に出ることばかり思っていた。

1946年~1970年頃の話ーたみお船場で開業するー

<世の中の出来事(とくに大阪の出来事)>
1945年以降 戦災復興都市計画により全国各地の被災土地が区画整理しはじめる
1962年~1970年 中央大通が整備される。
1964年 長堀川埋め立て
1969年  地下鉄中央線開通(本町~谷町4)
    地下鉄堺筋線開通(天六~動物園前)
1970年 船場センタービル誕生
    大阪万国博覧会 開催

たみおは結婚する。
和歌山初島出身の祖母と見合い結婚。
三女に恵まれる。(母誕生)

たみおが大阪にはたらきに出ている間、たみお妻(祖母)が和歌山でたみお実家の農家の手伝いをしていた。
たみお実家で祖母は肩身をせまくしていたそうだ。

和歌山の田舎から大阪の都市に出たいとうずうずしている若かりし、祖父の姿が目に浮かぶ。

「俺にゃあ、学がないからこそ、お金の力を持たねば、お金を管理出来ねば」
たみおはそう思った。

大阪で会社員として勤め人(衣料品関係)をしていたが、会社が潰れてしまう。
それなら、自分で商売をしようかとたみおは考えた。

そして憧れの船場に店を構えることになった。
船場には繊維問屋・小売商など同業の店が立ち並ぶ共同販売所が栄えていた。たみおはそこで店を出していた。

戦後の混乱期以降、高度経済成長期のため
物をつくればどんどん売れた時代のようだった。
もちろん浮き沈みはあっただろうが、商売繁盛していたのではないだろうか。

しかし、しばらくして立ち退きを求められた。
1962年~1970年にかけて中央大通の整備がされることがきまったからだ。

というのは
戦災復興都市計画で、全国各地の被災都市で、主要幹線道路の整備が進められていた。
大阪で中央大通の整備は大規模なものだった。
船場エリアは戦災復興都市計画の例外区域だったが、万博関連事業として整備が進められることになっていた。

中央大通の整備のために
船場の唐物町南部、北久太郎町北部が道路用地になるため、立ち退きが必要だった。
たみおの店はこのエリアに該当した。

船場エリアの地価もどんどん上がっており、
中央大通の建設当時、移転交渉は補償問題で難航していたようだ。
ならば、利用できる面積が確保されればよいのだろうということで、
道路の直下にビルを建設すればどうかというアイディアが生まれた。

こうして、船場センタービルが建設されることになった。
そして、立ち退きをされた商人たちが、この船場センタービルに店を構えることになった。
場所は抽選だったらしい。

道路の下にびよーんと伸びる船場センタービル。
4階建ての横に長細いビルが完成。

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こうして、たみおは、場センタービルの一角に店を構えることになった。

立ち退きのあれやこれや、店舗拡大など
親族の協力がありつつも、店の切り盛りを祖父母はしていき

三女を無事育て上げた。

船場のエリアって?

船場、船場っていうけど、範囲どこなん? って話

北は土佐堀川、南は長堀川(現:長堀通り)で2km
東は東横堀川(阪神高速南行線)、西は西横堀川(阪神高速北行線)で1km

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船場エリアの真ん中を東西に突っ切る、中央大通。そこに船場センタービルがある。(本町~堺筋本町にかけて)


船場へのあこがれー船場言葉に影響されてー

船場に憧れていたことがわかるエピソードがある。

母が母の従妹に電話しているとき
「こいちゃん、こいちゃん、こいちゃんはどうするの?」
と話しているのを聞き、

幼き頃の私は
「鯉ちゃんって、変わったあだ名つけたなー」なんて思っていたが

大人になってから、その謎が解けた。
谷崎潤一郎の『細雪』を読んであっ!!と思った。

母曰く、
こいちゃんとは、こいさんのこと。

こいさんとは末娘を表している。
母は「◯◯家の末娘ちゃん」という意味で呼んでいたのだろう。

これは、船場商人言葉らしい。

店の主人(旦那さん)→ だんさん
奥さん → ごりょんさん
娘さん → とうさんorとおはん (お嬢さん → いとさん)
息子さん → ぼんぼんさん

※◯◯さんは◯◯はんということもある。

姉妹、兄弟複数の場合呼び名が変わる。

長女 → いとさん
次女 → なかいとさん
三女 → こいさん
四女 → こいこいさん   となる。

※2女姉妹の場合、次女がこいさんになる

いとさん の意味は「お嬢さん」
語源は
両親からみて「いとしい人」「いとけない人」から来ており、商人(良家)の娘に対して使われていた。

こいさんは の意味は「小さいお嬢さん」
語源は「小(こ)」+「いとさん」で、こいとさん。それが省略されたもの。

いとさんと、こいさんの間にいる場合は、なかいとさんと呼ばれる。

男の子の場合は「ぼんぼん」で
語源は 「ぼん(坊)」を丁寧にしている。
お金持ちの息子に対して「いいとこのぼんぼん」と使われる語源はここから来ている。
これも複数だと、ぼんぼんさん、なかぼんさん、こぼんさん となる。

奥さんの「ごりょんさん」は
語源は「御寮人」からで、身分や地位が高い人、またその子女を敬う呼び方。

祖父は和歌山出身だが、親族で船場言葉が使われているのを聞くにつけ、
船場は憧れの場所だったことが感じとれる。

船場のなりたち、繁栄と衰退

そんな憧れの場所となる船場の歴史って?の話。
ときはさかのぼること、豊臣秀吉の時代。
ざっくり説明すると
秀吉が大阪城を築く。
大勢の家臣・武士が集まることとなり、必然的に、武器、食料、生活用品が必要となる。
そこで、秀吉は堺・京都伏見の商業人を強制的に移住させる。
城下町が整備されることにより、それが船場エリアの都市基盤となった。
そこに
船宿、料亭、両替商、呉服店、金物屋が誕生し、
経済流通の中心地として発展していった。

<江戸時代の船場>
各地から商人が集まってきて発展する。

1624年 住友創業
1656年 鴻池善右衛門両替そう今日
1750年 松平忠明の市街地整備、堀川の開削。
1838年 適塾開設

<明治時代~大正時代の船場>
幕末から明治初期にかけて、豪商が倒産し、蔵屋敷が廃止されたことにより大阪の経済が停滞し、船場も同じく停滞していた。
だが、そののち、大阪の市域が拡大することにより、商工都市として発展していった。
明治中期は市電が開通し、中央下水道改良事業も始まった。
平野町周辺には、料亭うどん屋や、うなぎ屋老舗が出き、大阪屈指の繁華街に成長した。好景気だった。

1878年 大阪株式取引所開業
1908年 市電東西線開通(四ツ橋ー末吉橋)
1912年 市電堺筋線開通(大江橋ー日本橋3)
1913年 市電靭・本町線開通(川口町ー谷町3)
1926年 住友銀行本店完成

<昭和時代の船場>
昭和初期、堺筋など主要幹線道路として賑わい、路肩に商店が軒を連ね、流行を発信していた。近代都市の代表となった。
久太郎町付近は各地の特産品を扱い卸売街として発展、船場は歴史ある商いの町として繁栄していた。
戦後、御堂筋、四ツ橋、堺筋などの街路が新設拡張し、都市基盤が整備されていく。御堂筋を中心に南北方向に都市軸を持つ構造のため、繊維卸売業者が集中していた丼池繊維問屋街が活況する。それが近畿地方のみならず、西日本全域を代表する商業地域となる。御堂筋(淀屋橋~本町)沿道は建設ラッシュとなり、軒高そろった街並みが出現する。
そして、1970年には船場センタービルが完成する。
細かな年表はたみお物語にて

祖父母は浮き沈みももちろんあっただろうけども、
昭和の時代を船場の商人として過ごした。

<平成の船場>
バブルが崩壊し、不況の時代となる。
船場の商人文化はどんどん衰退し。
過去の繁栄は見えなくなる。
シャッター街が続く。

平成初期、私が生まれる。

父母が祖父母から店を引き継ぐも
私が記憶している船場センタービルは
キタやミナミの開発との落差があり
時代とともに、取り残されていっている姿だった。
そして、父母は店を閉めた。
その閉めた店のあとにはなかなか、テナントが入らないらしい。

父母曰く、
巨大な船場センタービルを構成する多数のオーナーたちの意見や方針はひとつにまとまるのが難しいらしく、
それも開発が遅れている要因でもあるらしい。

船場全体の開発やらまちづくりやら、いろいろ課題を取りまとめて、導いていく人や組織が必要ではないかと。つぶやく。

もしかしたら、船場エリア関係者が、結束して動いている動きはあるのかもしれない。

船場の地域のさまざまな団体が参加していているグループのHPなどがざっと調べたらあったから、活動が動いているのかもしれない。


祖父の船場進出の物語を知って思ったこと

戦後復興の激動の時代を取り上げ、そこで生きる人々にスポットライトを当ててみたら、
朝ドラとか、Always三丁目の夕日 的な なかなか エモいストーリーができそうだなと。

一物書きとしてそんなことを感じた。

祖父の歩んできた軌跡をフックに、時代の面白さと、場所の興味深さに惹かれつつ、
そこからインスピレーションを受けて、
壮大で読んでて面白い物語を書けるようになりたいと。
そんなことを思った。









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