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関わっていても孤独という時間

小学生が2周卒業するくらい前のこと(つまり12年ほど前)
なんの議題か忘れてしまったけれど、当時勉強していたカウンセラーの先生に、幼い頃から感じていた心の柔らかい部分を吐露し、授業中に涙したことがある。

自分の事なのに、遠すぎて忘れている部分もあるけれど、小さい頃から内に秘めていた寂しさの理由が知りたくて先生に問うてみた。

小さい頃から、家族に囲まれていたとしても、心が独りきりに感じる。
たとえ外出先で、両方の手を家族が握っていてくれていたとしても、そのさなかでさえ心の中が孤独で寂しかったと。それは何故ですか?と。

誰といても心の中が孤独で寂しいのは何故ですかと訴える私に、
「それはあなたが本音で関わっていないからじゃない?」
「本音を受け入れてもらってると思えるから
受け入れられていると実感できるし関わりを感じられるのよ」と。
その言葉に妙に納得し、トンネルの中から光を見た気持ちになったものです。理由を知ったら、もう抜け出すだけだ。

小さい頃、もっと子供らしく振る舞っていてもよかったはずの時期に、大人の顔色を伺って良い子を演じるAC(アダルトチルドレン)という問題を私自身も抱えていたのだと知ったのも、カウンセリングを学んだおかげでした。

早くに大人びた自分になろうとし、甘えやワガママを封じ、良い子でいようとした時間は
心の内側に“子供らしい本来の自分”のような存在を閉じ込めていた時間。あれって、長くやり過ぎると抜け方がわからなくなるのよ。

“外側の自分”と“内側の子供っぽい自分”とが乖離していく程に、他者との心の関わりを実感として感じられず。人と本当の親しさを築くことを早い段階で諦めてすらいた。「私はずっと独りでいると思う」と呟き母を驚かせたこともある。

その理由に触れるまで、自分の周りに厚い壁があって、分厚い隔たりの中から世の中を眺めているように感じられたものです。長かったなぁ。理由に気が付くまで。
夢中で先生の話を聴いたあの日々は間違いなく私を助けてくれたし、そこで起こった軌道修正がいまの私へと通じているのは確か。
知ることは力。適切な場所や人に手を伸ばすことも大事。(間違えた所に手を伸ばすと搾取されるので注意してほしい!願。)
12年の時が過ぎた今も「自らと乖離したものを演じている内は、寂しいままよ」という考えは軸となっています。

P.S.
今は、完全に戻ってきた“幼き頃の自分”が安心して顔を出し、いい歳になっても末っ子ムーブしてしまう時間もありますが、だからといって嫌われるわけでもないと知り、昔の自分に教えてあげたくなります。その感じ、見せても結構大丈夫なものよ…と。鍵を閉めて隠れなくても大丈夫!だと。

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