信じることも、決めることも、怖いんだと思う
2023年から2024年にかけて、なんだか心がふわふわとしていた。
課題に追われる毎日だったからかな。
失恋したからかな。
様々な理由を考えてきたが、なんだか腑に落ちなかった。
そんな最近の悩みの種が少し分かった気がする。
変わることが怖かった。
様々な場所で様々な人に出会った。
みんなそれぞれ自分の考えがあって、自分の言葉があった。(少なくとも私にはそう見えた。)
私にとって真新しいものばかりで心が躍った。
新しいものにどんどん触れていこうと行動した。
しかし、触れれば触れるだけ、自分がぼやけていった。
視野が広がる面白さはあったものの、世の中にはこのようにも捉えられるのだと“だた知る”だけで、自分の中で噛み砕けなかった。
おそらく、今まで自分の中になかった考え方を受け入れることが怖かったのだ。
これまでの自分は、学校や家庭という限られた環境の中で、先生や親、先輩の言葉を信じていたし、“その環境下における”ありのままの自分を受け入れられていた感覚もあった。
だからこそ、今まで自分を受け入れてくれていた人と物理的に距離が離れたとき、“今の自分や変わっていく自分も受け入れてもらえるだろうか”という不安が心の奥にあったのだろう。
学校や家ほど長い時間一緒にいるわけでない人の言葉をどれほど信じていいのか分からなかった。
断言しよう。
高校時代の私は輝いていた。
なぜか断言できるのか。
それは、他人の目を気にしてしまうとき、その“他人”に当てはまるのはいつも、高校の部活の人たちだからだ。
落ちぶれたと思われたくない。
私はいつでもどこでも輝いていると思われたい。
自覚はしていなかったが、こう思っていたのだろう。
他人の目を気にしていいことなんて何もないとわかっているはずなのに。
これまでも何度もプライドが高い自分を認めてきたはずなのに。
厄介なことに、プライドの高い自分を認めているというプライドがあったのだ。
だから、自分が変わることが怖かった。
変わることが怖かったから、何も信じられず、何も決断できなかったのだ。
プライドは壊し続けよう。
プライドは気付かないうちに、高くなっていく。
これまでも、プライドが高い自分を見直したと思っても、またプライドの高さに悩まされていたなんてことが何度もあった。
だから、プライドを高くしないのではなく、高くなったプライドを壊し続けるイメージで捉えてみようと思う。
プライドを壊したところで、自分が変わってしまうわけでもないのだから。
プライドくらい捨てたって、私は私。
判断できる知恵を持とう。
他人の目もそうだが、今の自分が“こうなりたくない”と思うものに、未来の自分がなってしまうのも怖かった。
例えば、変な宗教や詐欺や事件に巻き込まれないかと。
同時に、そう思われるのも怖かった。
実際、自分の考えを言葉にしただけのnoteで「思想強いね」なんて言われたこともある。
その人が発した“思想が強い”とは、“意味のわからないことを言っていて怖い”なのか“考えを言葉にできていてすごい”なのかは分からない。
だが、私は“思想が強い→近寄りがたいもの”というイメージを少なからず持っていた。
だから私は、触れたものが正しいものなのか善いものなのかを判断できる知恵を持ちたい。(知恵って言葉の使い方合ってる?)
終わりに
分かっているつもりでも分かっていないことって身近なところにあるんだなと思いました。
変わることが怖い自分に気づけたのは、大きな一歩。
でも、まだまだ私の心の中には得体の知れないモヤモヤしたものがたくさんある。
まずはプライドをぶち壊しながら
少しずつ向き合っていこう。
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