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【自己紹介】私はいつも舞っていた

上京して今年で10年目を迎えました。
個人的にもようやく東京人っぽくなってきているなぁーと感じるここ数年です。
これまでの経験や感じたことなんかをnoteで発信していく予定です🤗

まずは私のこれまで、生まれてから上京してからこれまでのお話をしたいと思います。
長いですが、少しお付き合いいただけると嬉しいです。

私は、山形県 酒田市という町で生まれ育ち、20歳まで過ごしました。
東京に上京した理由はとにかく母親とあの家から逃げたかったから。ただただそれだけの理由で東京に出てきました。
母親との関係構築・維持はなかなか難しくあまり仲はよくなかったですし、今も仲はよくないです。

母親は私が一番最初の子供だったので小さい頃はとても可愛がってくれていたと思います。
ただ、親子関係はどうにもこうにも他人には分からない、見えないことがたくさん。血が濃い分、分かり合えないことやどうしようもないことってあるんです。
もともとばっちゃん(母方の祖母)っ子かつ弟が3歳に満たない頃に心臓手術をしており、私は祖母宅にしばらく住んでいたので、母との思い出より祖母との思い出が多いように思います。
本当にとにかくよく泣く子供だったそうです。あまりに泣くので祖父からもよく、うるせぇ!と怒鳴られていたことはなんとなくと覚えています。

私の両親共々どうしようもない親ですが、衣食住には困らせることなく育てていただきましたし、有難いことに日本中いろいろと旅行に連れていってくれたことだけは本当に本当に感謝しています。

酒田での暮らしは、中高と不登校だった時期もちょこちょこありながら過ごしましたが、今振り返ると私の人生で一番辛くてしんどい時期だったように思います。

中学を卒業し、地元の私立高校に進学するもクラスメイトからの無視が発端となりいろいろとうまくいかず、入学して半年経ったか経たないかくらいで休学をしました。休学後、翌年また再一年生としてスタート。無事2年生を迎えるもやはりなかなか思うようにいかずに通信制の高校へ転学し、そこでアルバイトも経験しながら4年かけて無事に高校生を終えました。

そんな高校生活を無事に終えようとしていた頃に父が倒れ、倒れた際の打ち所が悪く脊髄損傷になり、半身不随となってしまいました。
この出来事は、ちょうど2011年の1月頃だったと記憶しています。

父が搬送された日の翌日、明け方に病院から家まで母と二人で歩いて帰宅しました。その時に母から言われた一言がきっかけで私はここを出ようと決めたのでした。
「まい、もうどこにも行けないね。ずっとここだね。」と。

当時、私は18歳。父が倒れた際に取り乱し泣く母をなだめながら、医者からの説明を聞いていたのは私でした。
私もどこか冷めているところがある人なので、泣く母をみっともないなと感じたのも事実です。
18歳にして、一生ここで父の面倒を見ながら過ごしていかなければいけないのかと、母からの”どこにも行けないね”という言葉は、私にはとても重いものでした。

そこからは、とにかく逃げたい一心でいろいろとどうしようかと模索したものです。
私の母は、理容師をやっていましたので、漠然と美容系かな~とそこをターゲットに絞りました。
なんとか親を説得できるものを!と思い見つけたのが、東京のとある美容専門学校。エステティシャンの1年制コースがあり、オープンキャンパスに行き、奨学金を借り、数年後に上京。
実は、エステティシャンになりたいということは嘘で、エステティシャンになる気など端から私にはありませんでした。先のことなんて考えてもいませんでしたし、とにかくこの家族から離れたかった。それだけが私を動かしていました。

上京後の私はかなり危なっかしく、本当に世間知らずなぶっ飛んだ田舎の子でした。
でもそんなぶっ飛んだ私が、専門学校で後に人生の師匠となる恩人と出会います。
専門学校の校長先生です。
専門学校の担任の先生が手に負えないということで、私を校長先生との面談時間を設けたことが初めての出会いでした。
(*校長先生 以下、先生と表記)
先生と初めて会ったのは学校の図書室。これまでの私の歴史、父・母親との関係性、私の性格、思い、エステティシャンになるつもりは実はないこと含め、いろいろなことを話した上にこんなにも私の話をきちんと聞いてくれる大人がいるのかと私には衝撃でした。
先生は怒ることなく私の話を最後まで聞いて下さりました。

この美容専門学校に行くことを決めたのは、オープンキャンパスに参加した際、先生の講演を聞いたことが私の決め手でした。

そして専門学校に通っている際、この仕事がやってみたい!と唯一強く思った仕事があり、後にそのことが長い間私を苦しめました。ようやくそれが報われるのは2020年のコロナ禍です。

美容専門学校卒業後、とりあえず仕方なくエステティシャンの仕事に就くも、職場の人間関係に馴染めず仕事内容も全く覚えられず、とても私にはやれそうにないと3ヶ月程でエステティシャンの仕事は辞めました。
その後フラフラしながらもコールセンター2社を経験し、トータルで約4年間働き、専門学校時代にどうしても働いてみたいと思っていたエンターテインメント業界へ行こうと奮起します。
私は大学も出ていなく、エステティシャンもすぐ辞めており、尚且つコネもない為この業界へ行くことは至難のわざでした。
エンターテインメント業界寄りのイベント制作へ興味があったので、制作会社で探していました。実は、ほとんどの大手芸能事務所へも面接に行きましたがどれも全滅でした。
未経験の壁はあまりにも大きく、それでもこの経歴でも受け入れてくれるイベント制作会社を見つけましたが、案の定社長さんが難ありな方で、最終的には”できねぇ奴にはなにやらせてもできねぇだろ”と言われ4ヶ月目で馘となりました。
その後はライブ配信系のアプリを扱っている会社へ入り、しばらく働いておりましたがコロナ禍に突入。コロナの影響で人員整理が入り、しばらく無職での日々を過ごす事となりました。
その中でもめげずに職探しは行い、人生で初めて派遣会社にも登録。その派遣会社でまさかの某大手芸能事務所での採用が決定!2020年の10月の事でした。
ようやく私の全てが報われた瞬間だと感じました。

そんなようやく働きたかった業界へ行けた私ですが、今はそこを辞めて別の業界で平和にお仕事をしております。
ずっと働きたかった業界へいけたにも関わらずスパッと辞めてしまいましたが、特に後悔はありませんし、とても楽しかったです。

私はこれまで独断で全て決めてきました。親や他人からするとまた勝手に思い付きで物事を決めて!という感じでしょう。
なかなか地に足が着いていなく、師匠には名前の通りいつも舞ってるね~~と言われたことがあります。
でももうそれが私の性分なのでしょう。

なぜその業界を辞めたのかは、これ以上書くと長くなりすぎてしまいますのでまた別記事でお話しましょう。

私がこれまでに経験したことでみなさんにもシェアしたいこと、ただの一般人ですが伝えておきたいことがありますので、このnoteをはじめました。

Instagramも更新しておりますので、どうぞ興味がありましたらご覧になってみてください。
noteのプロフィールへリンクをつけております。

では、最後まで私の自己紹介をお読みくださりありがとうございました。
みんなが幸せに過ごせますように・・・💛

Mai

#自己紹介 #はじめてのnote


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