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「死生観」としてのアート

ご多分に漏れず、ちょうど小4あたりのとき、「死んだらどうなるんだろう」と考えていろんな物事が手につかなくなったことがあった。考えれば考えるほど、「なんで自分が、”自分”を今やっているのか」の理由がわからず、そしてそこに「運命」のような人間が考えただけの概念で納得をくっつけることもできず、結論としては、「たまたま今、この人間のターンをやっているだけであって、死んだらおそらく、この人間が生まれた直後に生を受けた何か別の生き物の誕生から、すべての記憶を消去されてリスタート」なんだろうと思いいたるようになった。それを、全生物ずっとやり続ける。記憶が消えるのでもはやそれは同じ人格のそれではないので、連続性など感じないのだろうけど。でもまあ、それだけ、今世に必然性を感じなかったし、必然とか偶然とか、そういう人間の概念で整理のつかないルールで自然原理は流転しているに違いないと思ったわけです。今もこれは実は変わってないけど。

そんなことを、今日行った「塩田千春展」を見ながら唐突に思い出した

塩田千春 《静けさの中で》 2008年

自分はこの「ただひたすらに生き物を順番にやっていってる途中としての今世」という考え方に至ってから、自分とそれ以外との境界線がいい意味で心地よくどうでもよくなったり、自分より年下の人が他人を殺したり、他人に殺されたりする事件を聞くたびに、いつかどこかでその人間のターンをやることになるのかと思うと憂鬱になる一方で、そういう出来事を今世のうちになるべく減らすために何ができるのかと考えるようになって。そんなオーバーなケースはさておいて、一言でいうとなんとなく、周りにやさしくなったんです。自分の他者への行いが返ってくることをブーメランなんて言うようになって久しいけど、輪廻こみのブーメランみたいな感覚。そういう、ある種の死生観について語るとどうも宗教じみた、やばい話みたいに思われがちな風潮根強いこの世の中だけど、その人が何を大事に生きるのかの根本に直結していて、そのことを思い起こさせてくれる機会としてのアートに、意味を大きく感じたんです。

インスタ映えなインスタレーションに表面的な注目も集まってますけど、壁に書かれた塩田千春の言葉言葉が白眉だと個人的には感じる展示。21_21の「虫展」、森美術館おとなりでやっていた「PIXARのひみつ展」と、今六本木はアツいので、ぜひぜひ。

塩田千春 《不確かな旅》 2016年

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