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セカンド育休と家事と螺旋階段と。

子供が生まれたことによる経験で一番、インパクトが大きかったのは育児家事を主担当としてやったことで。育休を2度に分けてとったことで、2回目の保育園入園時期にあたりに、「パートナーは働いていて自分は育休している」という状態を経たのがその背景で、1回目の「あっちはうみたて・こっちはオロオロ」とは全く違う時間を鮮烈に過ごした。そのことはまたどっかで書くかもしれませんが、一番その後に影響が大きかった気づきは、物事には、一つひとつ積み上げて片付いていく「階段型」の構造の他に、何をやろうが進めようが時間と共に元に戻ってまたやらないといけない「輪廻型」の構造があるということでした。

部屋の掃除は、一回完璧にやって綺麗になったからとて、「もう2度と、片付けというタスクに見舞われない」というわけではない。何を当たり前のことを!と読むと思う文章だけど、どうも自分はそういう物事の捉え方がOSとしてかなり欠如していたんだなあと。だから片付けが苦手、という以前に「やる気が起こらない」という現象が30数年、起こり続けていたのだという因果分析が初めてできた。「やれば上達して次の局面に進展する」「その積み重ねが至高の状態に続いていく」という、階段型の捉え方で、剣道だってトロンボーンだってキーボードだって仕事だって、ある程度は御すことができたんでしょう。その裏で、「やったってどうせ元通り」みたいな物事をかなり軽んじてきたということになる。そんな態度の自分の傍らで、こいつ全然動かないな!とかイラつきながら、溢れていくタスクをどなたかが拾ってくださっていたことに意識すら向いてないという、不届き者だったことを、図らずも「輪廻型タスクの塊」のような育休で思い知ることができたのは、本当に大きい気づきだった。ほんと、専業主婦の方々に対しての敬意が止まらない。輪廻型だけで生活が構成されてたらキーーー!ってなるに違いない。

「輪廻型」は、結局元に戻ってまたやらなきゃいけなくなるんだから、最初からやらなくたって一緒じゃないかというのが、その手の作業に着手しない人の身勝手なロジックなのだけど、それは究極突き詰めて考えると「どうせ死ぬんだから最初から生まれてこなきゃいいのに」理論に行き着く。生命そのものがそもそも輪廻型でしょっていう話で。生まれてきたばかりの我が子を目の前にそのような反出生主義みたいな考えがよぎるわけもなく、というかそもそもそんな理屈なんて言ってる場合じゃなくて、いいから皿洗っておむつ替えて風呂入れろの世界に、しかも主担当として没入した数週間。「片付けて綺麗になって、いずれまた散らかる」のその間に、綺麗な空間できっといい時間を過ごせるという当たり前の価値すらも、変にロジック偏重で引きで見て考えるやつにはわからないというか、屁理屈でやりたくないことから逃げてるだけであって、「いいからやれ」という、手が先に動く感覚の弱さを自覚できたのでありました。

「変わらない日々をそれでも腐らずにしっかりと繰り返すこと」
「変わらないことが定着した人にしか気づけない、“いつもと違うこと“がある」
「その気づきが少し“新しい変わらない日々“にバージョンアップさせてくれる」

なんも変わらないただの同じところの回転ではなくて、正確には緩やかな角度のついた螺旋階段なのでしょう。上から見ると繰り返しでも、横から見ると着実に登っていっていると、あっという間にヤンチャ小僧見習いになった息子氏と、ソファでぐちゃぐちゃに戯れ疲れて思った、考えのメモ。なかなか変わらないし焦るし不安になるし、でもちゃんと進んでるから大丈夫、みたいな漫画がなんだか思い出せなかったけど思い出せたので、今度帰省した時に読もう。連載再開してくれないかな。


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