「わからない面白さ」こそ、自分らしさになっていく。

擬音語多めのプレゼンをする後輩に「長嶋茂雄みたいだなあ」と言ってももうわかりませんよその世代、というツッコミを先輩にするのも自分の世代の役割なのかなと思う中年の入り口に立つ今日この頃。

デザイナーの原研哉さんのポッドキャスト「低空飛行」を最近よく聴く。毎回一流のゲストが来て対談形式でいろんな「日本」にまつわる話をされるのですが、料理研究家の土井善晴さんの回がとてもよくて。

「研究家」というのは言語化する仕事なんだと聞きながら考えていたんですが、そんな中で「大人になってもオノマトペを使い続けるのは日本人くらい」という話が出て。西洋の言語だとオノマトペというのは大体の場合、子供のものであって、大人になったらそういう幼児ったらしい言葉使いからは卒業してってしまうそうで。「サクサク」じゃなくて「Crispy」ってな感じ。だから要するに日本人っていうのは食感が大好きな文化を持ってるんですという趣旨の話だったんですが、「抽象的なものを抽象的なままコミュニケーションしようとする」、曖昧さを温存したまま流通させる文化とも取れる話だなと考えた。

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「曖昧だから伝わらない。具体化せよ。」とはビジネスではよく言われることで、僕もそれはそれは人によく言ってきたことですが、「曖昧さを保ったまま伝える」という方角にも工夫と能力が本当はたくさんある。僕がイベントのたびにお世話になっている中尾さんのグラレコなんかもそういう側面がある。

「はっきり言い切らないことで解釈を委ね、発信者の発想の限界を超えた思考に到達する」とか、「あえてイメージや直感的な共有を目指すことで、その方が結果的に“情報量が多い“伝達を可能にする」とか、色々メリットはあるのだけど、単に「その方がワクワクするから」っていうのも、なかなかに大きいんじゃないかな。「Crispy」よりも「サクサク」の方が、美味しそうじゃね?みたいな。

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ただ、最近はとかく「わかりにくい=即悪」であって、面白くないということにされがちで。どこもかしこも過剰なまでに「わかりやすいかどうか」に奔走しているように思う。

わかりやすさと面白さは、ほとんど一緒である、かのような。

真実は、この二つはやっぱり別の軸で、人が見落としがちな「得難い面白さ」は、「わかりにくい面白さ」にザクザク眠っているのだと思うのです。

「右上」が未踏の楽園かも

世の中が「わかりやすさ」に殺到するということは「わかりにくい面白さ」を解ることができたら、それは自分だけの喜びになる可能性が高いということで、その積み重ねでしか結局は、その人のアイデンティティは生まれてこない気すらする。人は「わかりにくい面白さ」を解る過程で、決してそこに記されている難解な一つひとつのロジックや意味を順番に理解し積み重ねて進むのではなくて、「ざっくり全体的に、多分こういうこと??」という仮説の背骨のようなもの探している。そこの「感覚で掴む」ことが、わかりにくい面白さをモノにできるかを分けている気がして、じゃあその感覚は何で得るかというと、「曖昧さを保ったままコミュニケーションしてきた経験の総量」なんじゃないかなと。自分は幸い、「曖昧さを保ったままコミュニケーションをする」ことが超大前提の“音楽“を相当な時間かけてやってこれたのが、今思えば助かった。バンドマスターという役割は、ほんとに、いかに「感覚で掴む」かだし、自分が掴むだけじゃなくて「他のメンバーと掴み方を共有するためにさまざまな“曖昧なコミュニケーションの引き出し“を持ってないといけない」立場だったので、自覚してないような思考の根幹で役に立っていることが、この整理をすると自覚できた。音楽、いいよやっぱり。

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10年くらい若者文化研究をやってきて、この「わかりやすくないと論外」の風潮はどんどん進んでいて。ネタバレ、出オチ、倍速再生上等な今の世の中は、何か情報なりコンテンツなりに触れる経路がどんどん「左寄り」になっているんでしょう。

コンテンツに触れる初動の態度「1」「2ーA」「2ーB」

「1」の経路。「最初にわかりやすくないとその時点で脱落」の経路。情報総量が半端じゃなくて、フリーミアムとサブスクが当たり前のコンテンツ摂取量爆発時代に、この足切り条項はどんどん残酷になっているように感じる。かつこのわかりやすさはそのまま「他者とのシェアしやすさ」にも相関していて、「分かち合えるかどうか」がそのコンテンツと触れるか否かを左右する度合いの高まりを考えても、そりゃ「1」経路が太くなるよなあ。この逆の「最初わかりにくくて面白さがわからないものを、なんとか味が出てくるまで噛み続ける」という「2ーA」の経路はなかなかに分が悪いし、それは仕方のない流れだと思う。きっと鍵は「2ーB」の、「なんかよくわかんないだけど面白そう!」という、直感的な好奇心とか予感とか、そういうモノのセンサーを信じるというところにある。理屈とか意味とか、「どう面白そうか」という説明ができない何か。それこそ、長嶋茂雄的な感覚を持つこと。やたらとアートがこれからビジネス界においても重要になるとか言われてるのも、言い換えれば「2ーBから物事に入っていける経路を持てるかどうか」と置き換えると、なんだか分かる気がする。

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もちろん、実際のチームワークやビジネスシーンにおいては、「2」から入った事柄もしっかりと咀嚼して「分かるように他のメンバーと共有していく努力を放棄しない」姿勢は必須で。そこから最初から逃げて押し通そうとするのは「悪い意味で長嶋茂雄」になってしまう。特に日本は「伝わらなかったら受け取る側がバカ」という、ハイコンテクストなコミュニケーションの度合いが高いと言われていて、それが年功序列文化と合わさって「年下がものを言いづらい組織風土」をそこかしこで発生させてきた背景がある。だからことさら「偉いか偉くないかと、分かるか分からないかを混ぜないで!」とコンサルティングの現場で伝えてきたし、「どの立場の誰が、誰に対して言っても解釈の余地がない具体的な言い方をしよう」というローコンテクストの勧めをしてきた。言語化を諦めないことと、非言語も含めた「曖昧さを保ったままのコミュニケーション」のボキャブラリーを養うこと。両利きで磨いていきたいのだけど、こと自分個人が物事と最初に出会うときの好奇心のあり方として「なんかよくわかんないんだけど面白そう!」というセンスは、忘れないようにせねばなあと、特にそれがほぼ100%で駆動している2歳の息子氏の挙動を日々観察していて感じる。

たまには「この面白さ、分かるかい?」と、ハイコンテクストに試されるような物事との向き合い方を自分の中で忘れぬようにしたいと思いつつ、ネックは結局、そういうものと向き合うだけの時間的余裕と、脳のスタミナ余力なんだよなあと悩ましいここ最近。台風でどこにもいけないので、人を殴り殺せそうな本でも積読から引っ張ってきて読もうかなという、今週のメモ。

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