ジーンケリー

自分の乗っている巨人の肩を知る

映画好きで、年に100本は頑張ってみている身として、たまには映画のことを書こうかなと思います。いまさらながら、ジーン・ケリーをちゃんと観ようと思って、そしてさらにいまさらながら「雨に唄えば」をちゃんと見たんです。なんかもう、泣けてきちゃって。ストーリーも演技もダンスもそりゃ今だって色あせない「素敵」という言葉がぴったりの映画なのはわざわざ自分が書かずともよく知られたことだと思うけど、なんというか、ジーン・ケリーが、まるで万物の始祖のような、全役者・全エンターテナーのおじいちゃんのような、そんな風に見えた瞬間が何度も何度もあった。

あの映画のあのシーンも、このミュージカルのあの曲も、たくさんたくさんこの人の影響を受けてこの世に産み落とされたんだろうということが、まるで本来は概念でしかない家系図のようなものが実際に画面から浮き出てくるようなそんな感覚で押し寄せてくる。この映画のストーリーも、無声映画からトーキーへの変わり目で苦しむ往年のスターがアイデアで時代の変化を乗り越えようとするってものなので、なおのこと、人がある種の芸事を進化させ続けようとする営為そのものにもなんだか崇高なものを感じ入ったわけです。

ことさら時代は「激変だ」とか「いままでのやり方を捨てきらないと生き残れない」とか方々で叫ばれる状況になっていて、変わらないといけないことばかりなのだろう。懐古的になったり昔はよかったといってる場合じゃないのだけど、じゃあその新しい時代に向けて新しい軌道のアーチを描くときにどこに踏ん張ってスイングするかっていったら、巨人の肩の上なんだと思うんです。まるで何もない無から有を生み出すような不遜さも振る舞いとしてはかっこよかったり、それくらいのパフォーマンスが必要なくらいもうどうにもこうにもならない旧態依然な部分もたくさんな世の中かもしれないけど、自分がかかわっている物事のルーツを知っている人のほうが、いい軌道を書描けるようにやっぱり思う。なんの巨人の肩に乗せてもらっているか。自分は別に映画を仕事にしているわけじゃないので、自分の足が乗っている巨人の肩も、考えてみたいと思わせてくれる作品だった。

なんとなく、フレッド・アステアの完全無欠で超絶技巧な「高さ」のダンスよりも、ジーン・ケリーの「広がり」のダンスのほうが、僕は好きでした。このあたり、もしよかったら見てほしいなあ。「巨人たち」と「その肩の上で生きる人々」の物語。


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