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誰かと何かを共に創る全ての人に、「映像研には手を出すな」を見てほしいと思う

コンフィデンスマンJPをみたくて初月無料のFODに入ったのがきっかけで、なんだかよく目にするなあと思っていた「映像研には手を出すな」を見始めてしまったこの1ヶ月ですが、これは「誰かと何かを共に創る人」はみんなみたほうがいいやつでした。

アニメ制作に学生生活を捧げる3人の女子高生のお話ですが、「アニメを生み出す行為そのもの以外の工程」をしっかり描いているのがとても素晴らしい。部室を獲得する。顧問をつける交渉を学校側とする。部費を生徒会にプレゼンして勝ち取る。備品を他の部活から調達するなどなど。創造的仕事の大半の時間と労力をしめるのは、作品そのものと比べたら日の当たらないそういった「日々の営為」なわけですが、本来はそこをアニメで描いても面白くならないからカットとなりそうなものを、「映像研〜」では描いてるんです。すげえ。

ひとえに、3人のうち唯一、自分ではアニメーションを描かないプロデューサー役の金森氏の手腕の鮮やかさが魅せる流れになっているから「日々の営為」を描いても面白い訳です。ほんと有能。こういうプロデューサーと仕事できるクリエーターは幸せだと思う。僕が社会人3年目の時に、東京企画構想学舎という社外学校に通っていた頃、伊藤直樹さん(当時はW+KのECD)がいっていた「アイデア」の話を強烈に思い出す。

アイデアには2種類ある。
「アイデアそのもの」と
「そのアイデアを成立させるためのアイデア」と。

例を出すとしたら、「この世界の片隅に」を映画にできたのは「Makuake」というクラウドファンディングだった、みたいな構造です。多くの場合、世の人が「アイデア」といって指すのは前者であるけど、実際にそれが世の中に産み落とされるまでには、多くの制約条件をクリアしないといけない。そのアイデアが新しければ新しいほど、世の中にはまだ、そのアイデアを受け止める環境が整っていない。そんな「無茶」なことを成立させるのに、またアイデアがいるわけだと。伊藤さんのこの言葉は、僕の企画屋人生の中の金言の一つなんですが、金森氏は、それなんです。その「アイデアを成立させるためのアイデア」を、魅せてくれる。

自分が求められている役割をよく理解し、クリエーター二人のアニメーション制作そのものには過度に踏み込まず自由を与え、ただ、自分の領域である「このアニメーションを成立させる」ための予算管理、進捗管理、備品調達、渉外、広報を一手に担う。その責任の砦を守るためには、クリエーター二人との摩擦を一切躊躇しない。中学時代からの知り合いである主人公浅草氏が金森氏との関係性を「友達ではないよ、仲間である」と評していて、ああ、なるほどと。友達は「状態のための関係性」、仲間は「目的のための関係性」。仲の良さを崩したくないという理由で、自分が譲ってはいけないことを譲ってしまうのは「仲間」では無い。ここ数年、コミュニティがブームだけど、改めて「チーム」との違いや、チームじゃないとなし得ないことを考えさせられるアニメなんです。

アニメといえば、高畑・宮崎両奇人と、鈴木敏夫の関係性と相似な気もする。「良い作品をつくり上げるためにはそのほかの全てのことがなぎ倒されても構わない」という狂人の才覚を、どう社会に着床させるのか。プロデューサーとは「成立させる人」という定義を、僕はジブリの様々な制作のドキュメンタリーをみていつも思う。このたびのNetflixへの過去作品解禁の理由を語ったこの記事の発言とか、最高かよと。こういうことを言い合えるのはやっぱり、友達ではなく「仲間」なんだろう。互いの責任の砦にリスペクトを持ち、相手の砦に属することについては基本素直に従う。ただ、自分の砦が守るべきことと衝突する場合は摩擦を辞さず言い合い、言い合い終われば引きずらないで切り替える。


「映像研には〜」からの関係性の学びは、「友達と仲間の違い」「プロデューサーとクリエーターの関わりのあり方」です。多くの人は、そんなことはわかっていると思うかもしれないけれど、いざ、概念ではなく日々の制作の中でそれを我が身で体現しようと相手を目の前にした時に、そうは行かないことばかりなんじゃないかなと。その、概念ではなく「日々」の有様を、SFでも冒険譚でもなく、ちょっとアニメ作りに青春を感じているなんでもない普通の女子高生で描いていることこそ、このアニメを全ての「何かを仲間と生み出そうとしている人」に見てほしいなあと僕が思う理由でした。

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