本多静六さんと勉強と教育と

令和5年1月6日
A4一枚分の文章を書こうと思う。一日1ページ書く。本多静六さんがやっていたことのようだ。本多静六さんは日本の大富豪であった人だ。すごい人を真似て学ぶ。それが僕にできる唯一の道であり、やりたいことなのだと思う。しかし僕は文章を作るのが下手だ。もっと日本語の勉強、あるいは文章の勉強が必要なのではないかと思う。今僕が勉強していることは多々ある。主に四書五経をやろうとしている。今その中でも力を入れているのは易経だ。易経講話という本を読んでいる。全5巻あり、毎日ほんのちょっとずつ進めている。読むのに5~10年かかる勢いで読んでいるのでゆっくりと自分のものにしていこう。ちなみに今勉強しているところは風天小蓄、☴☰だ。小さいものが大きいものをとどめたり、ためたりすることのようだ。まだ読み始めたばかりなのでいっぱい学んでいこうと思う。これでまだA4の半分いっていない。結構これ大変なんだなと思った。A4に手書きで書くか、PCで書くか迷ったが、本にするにあたってはどう考えてもPC`のほうがいい、という結論にいたって今PCにかいている。勉強するだけだったら手書きのほうがいいのだが、これからの発展のことを考えるとやはりデジタル化した方がよいのである。僕が目指しているのはアナログとデジタルの調和。片方に寄っても意味がない。人間はどう頑張ってもアナログの存在から抜け出すことはないのだから。人間とはなにか。地球とはなにか。天とはなにか。を考えていく必要がある。農業全書という本を買った。天があり、地があり、その間に人間がいるのである。そういう本がもうすでに1700年にはあった。なのでそれを根本に考えればいいのである。過去の偉人たちの力をいっぱい借りて、温故知新していけばそれで物事は解決していく。名前がわからない偉人たちもたくさんいただろう。そういう話を受け継いで僕らは生きていることを実感しなくてはならない。どう考えても今の教育はおかしい。国語算数理科社会が一番である教育なんて間違っている。根本的な教育を変えるためにはどうしても先生が必要。でもその先生の候補になれる人があまりにも少ない。というか今の学校の先生は大学卒業してそのまま学校の先生になっているのだからあまりに教養がなさすぎる。社会経験をし、いろんなことを知り、経験をしている人が教師になっていかねばならない。本当にそう思う。もはや手遅れなのかもしれないが、それでも手を差し伸べたい。勉強は子供たちのやりたいこと、興味のあることだけやっていけばいい。この前、虫にとても詳しい子供と話したが、それでいいではないか。虫に詳しくても国語算数理科社会が出来なければ勉強が出来ないというハンコを押される。どう考えてもおかしい。子供それぞれに会った教育をしなければならない。それを教えられる人、許容できる人がなかなかいない。子供を怒ることが教育だと思っている人があまりにも多い。子どもたちを自由にそしていろんなチャンスを与えられる。そんな場所が必要。文科省の下ではもう無理だ。マニュアル人間が自由な人間など育てられるはずがない。そこまでの胆識を持った人間がどれだけいるのか。知識、見識、胆識。安岡正篤さんもよく言っていたらしい。手遅れと感じてもやっていかねばならない。知らないでいられたのは3年前までだ。今は2023年。2026年までどうにかして生き残っていきたい。

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