ライトな毒親の話

毒親。聞いたことある方も多いのではないのでしょうか。このシリーズはすごく、自分に正直になって書いていくつもりです。誰かにずっと言いたかったけれど、言えなかった心のうちをここに供養して行こうと思います。

毒親というのは、子供にとって毒のような親のことを指します。DVとか、性的虐待とか、モラハラとか、我が家はそういう「典型的で重症な」毒親ではありませんでした。親から殴られたことはなかったし、性的な嫌がらせも受けませんでした。モラハラは多分、心配と関心の範囲内、でした。家庭の経済状況は普通で、両親は共に大学を出て、それなりの教養がある人でした。だから、私は正直何年も迷っていたのです。なぜなら、毒親っていうのは「もっとひどい親」じゃないといけないという社会的な風潮を感じていたからです。もしかしたら、私の能力不足で、甘えで、図々しさで、勝手に都合よく両親を毒親だと扱っていたら、と考えると夜も眠れませんでした。

けれども、ひとり暮らしをするようになって気づきました。多分、両親は毒親です。「すごくひどい毒親」ではありませんが、「ある程度は毒親」です。

思い返してみると、私は子供の頃から不安の多い人間でした。いつも自信がないのです。夜はよく眠れなかったし、時折とてつもない虚無感を感じていました。私の人生は、しかし、いわゆる「壮絶な人生」ではありません。「なんとなく、ずっと、少しだけ不幸な人生」という方がしっくりきます。

毒親かもしれないと思ってから、遡れるだけ遡って一番最初に思い当たるのは、小学校一年生の時のことです。

小学校に上がって、クライスメイトたちが習い事を始める時のことです。私は、当時近所のバイオリン教室の前を通るたび、その優雅な演奏に羨望を覚えていました。

ある日、父親が突然、「やりたい習い事はあるか」と聞いてきました。子供心にバイオリンが習えるかもしれないと期待した私は「バイオリン」と答えました。

結果は即答で「だめ」でした。

しかし一週間くらいして、近所にピアノ教室ができると、父親は盛んに私にピアノ習うように勧めてきました。嫌だと言っても、繰り返し繰り返し、「ピアノなら習っていい」というのです。疲れ果てた私は、内心習っていいんじゃなくて、習って欲しいんでしょう、と思いながら、ピアノ教室に通うことになりました。ピアノは楽しかったです。でも、家で練習するのが憂鬱でした。ピアノって最初はドレミファソから練習するのに、父親は一回レッスンに行けばショパンが弾けるようになると信じて疑わなかったからです。だから、練習は失敗もするものなのに、いつも下手だ、もっとうまく弾けないのかと言われ続ける家での練習は苦痛でした。そのうち、私はピアノを練習しなくなりました。レッスンをすっぽかしたこともあります。どこにいても、ピアノを弾くたびに下手だという父の声が聞こえてきて苦しかったからです。そんな私を、両親は「怠け者」だと責めました。毎日2時間のピアノ練習をしないとたくさん怒られます。しかし練習すると小言が飛んできます。本気でピアノが嫌いになりました。毎日、両親は私が泣くまで叱ります。

「お金を出してるんだぞ」「ピアニストは一日10時間も練習してるんだぞ」

「なんでまだこの曲やってるんだ」「サボるな」

今思い返しても、つらい。詳しく書いたらもっと長くなるけれど、それは自分の傷をまた穿り返すようなのでやめておきます。

小学校二年生になって、今度はクラシックバレエを習いたくなりました。こっそりバレエ教室に行って、友達のバレエシューズとレオタードを借りて体験授業を受けました。すごく楽しくて、絶対習いたいと思いました。両親にそのことを伝えると、表情が曇りました。ピアノ教室の月謝が高いからバレエはできない、と。もうその頃にはピアノが大嫌いだったので、私は「ピアノをやめればいい」と言いました。両親は譲りません。結局、バレエ教室に通う友達のお母さんに説得されて、両親は私のバレエ教室通いを認めました。メンツが立たないから通わせてくれたのです。

「お前には今まで以上にお金をかけているんだからな」「バレエはきちんとやるように」

それが父親の口癖でした。

一方で、習い事は重要だという認識はあったのか、有名な脳科学の学者だかなんだかが成績が良くなるには習い事・スポーツをさせろとテレビで言ったのを聞いたからか、逆にあれもこれも「両親がやらせたい習い事」はすぐに通うことが決まっていきます。小学校三年生の時には、日曜日を除いては全て学校以外の時間は習い事で埋まっていました。ピアノ、バレエ、水泳、ドラム、絵画、それからそれから…。

小学校時代に友達と公園で遊んだ記憶がありません。

いつも習い事で疲れいる私は、休み時間になると図書室に行って長いシリーズ物の小説を読むのが好きでした。放課後に遊べない私は同級生の中では「つまらない」「よくわからない」やつだったので、あまり友達もできなかったのも理由でした。月に少なくとも50冊以上は本を読み、多い時は100冊以上読みました。その時によく読んでいたのはコナンドイルだったのをよく覚えています。初めて読んだのはバスカヴィル家の犬という作品です。

本を読んだことで国語や社会などの科目の成績の下支えになっていたのか、それとも両親に怒られないように身につけた「大人への服従の態度」が功を奏したのか分かりませんが、通知表の成績はずっと「よくできました」ばかりでした。小学校高学年になって、逆に成績がいいことが仇になり、中学校受験という第一の地獄に引き摺り込まれることになってしまいます。

担任の先生からの強い勧めで小学校五年生の時、中学受験するように言われました。正直、自分でも成績は悪くないことを自覚していたので、周りの中学受験組の話を聞く限り、いつか自分も面談の際に勧められるというふうに予測していました。先生の褒め言葉に気をよくした両親は県で一番の(一番偏差値が高い)中学校を受験しろ、と言いました。そこで、秋から厳しいと噂のある学習塾に通うことになりました。私は算数が苦手だったので、算数の宿題を人一倍多く出されていました。夜中まで終わらなくて、両親に聞いても「お前のためにならないから」と無視されて、日を跨いでも泣きながら問題を解き続けることがよくありました。

今思うと、分からないものは分からないのにな、としか思えず苦笑しています。

苦しい日々でしたが、そんな中でも妙に冷めている私がいました。いい中学校に入ったら、いい高校に入って、いい大学に入れて、いい会社に入れる。漠然と学歴社会のことを理解していたからかもしれません。泣いては問題を解き、決まった曜日にはバレエ教室に行き、水泳に行き、帰りのバスで問題集の予習復習をする。そのせいか私の視力はかなり悪くなっていきます。両親は二人とも近眼なので、視力が悪くなっていく私を非難しました。

「なぜまた視力が悪くなっているの」「眼鏡なんかかけたらおしまいだよ」

その一方で、勉強しろ、受験しろ、と同じ口でいいます。私は困り果てていました。眼精疲労と参考書の重さで肩が上がらなくなっても「私がダメな子だから、本を読むと目が悪くなって、他の習い事もこなせないんだなぁ」と考えていたからです。また、週三日通っていた大好きなバレエをやめろとしつこく言われて、私の心はどんどん曇っていきました。

もっと私を苦しくしたのは小学校でのいじめでした。中学受験をすると決めるにはあまりにも遅い時期でしたから、元々低学年の頃からバリバリ進学塾に行って勉強している子たちには馬鹿にされ、受験しない子たちからはガリ勉だと無視されました。家庭科の裁縫実習の時に背中をいじめっ子に針で刺された時は本当に死にたいと思ったことを鮮明に思い出します。新調した筆箱は盗まれるし、上履きに画鋲、そんな漫画みたいな嫌がらせが続きます。

死ね、ブス。このころ毎日のように投げかけられていた言葉は後に私がルックスへのコンプレックスをこじらせる引き金になりました。さらに殴る、蹴るなどのいじめが目立つようになったのは六年生の頃です。

小学校の頃、少なくとも私の通う小学校では、中学受験をするのはお金持ちだと決まっていました。受験組はいつも小洒落ていて、勉強ができて、お母さんが優しくて、お父さんは穏やかで、本人たちは女の子っぽくて、「スクールカースト」の女子最上位でした。その下に腰巾着がいて、直接いじめてくるのはこの層です。足が早くて、スポーツができる爽やかな「スクールカースト」の男子上位層は、上位層女子の好意の対象です。ここまで書いて嘘みたいな話だな、と自分でも思いますが、本当に起こったことなので、いまだに小学校の同窓会には出れてません。思い出してもゾッとするからです。話を戻すと、いじめが加速したのは、その上位男子と、「一般もしくはアンタッチャブル」の私が廊下で二、三言話したことです。子供なので、根も葉もない噂が広がります。付き合っているとか、そういう類の噂です。これに腹を立てたのが、上位女子です。昇降口で、教室の後ろで、先生の見えないところでいびってきます。

救いになったのは、秋以降の受験シーズンになるとそんなことに気を取られる必要もないくらい勉強が忙しくなっていたことでした。早くこんなところ出てやる、そんな気持ちで勉強していました。皮肉にも上位女子や一部の腰巾着たちと受験する学校が同じだったので完全な脱却とまではいかないのですが…。

よく覚えているのは、志望校の面接で同じ小学校だったせいか、見事にいじめっ子たちとグループ面接で同席する羽目になったことです。進学塾できっちりと対策をしてきた彼女たちを横目に「あ、落ちたな」と思いました。

結局、合格しました。腰巾着たちは不合格だったのですが、上位女子は合格していました。卒業式がやってきました。一滴も涙は流れませんでした。こんなところ離れて、スッキリした!というのが本心でした。まだいじめられていましたから、私の卒業アルバムの寄せ書きページは罵詈雑言で埋まっています。

そして、小学校でいじめられていたとは、一言も両親には言えませんでした。正確には言いかけていたけど、「それはあなたが悪いでしょ、我慢しなさい」という言葉で、それ以上口を開けなかったからです。

中学に入学して、元上位女子たちは仕方なく同郷出身という感じで受け入れてくれました。内部に小学時代とは異なった確執があったのは確かですが、表面的だとしても、「ハブられ」を抜け出すことができたので助かりました。


昔を思い出すと、この文章を書く手がとまります。それでも、供養しなくちゃいけない心の残骸をここに記しておきたいので少し休んでまた次回にお話ししようと思います。

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